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Magic Story -未踏世界の物語-
郷愁
郷愁
Chris L'Etoile / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年8月29日
前回の物語:約束されし終末
五人のプレインズウォーカーがゲートウォッチとして同盟を結んだ。カラデシュからは紅蓮術師チャンドラ・ナラー。テーロスからは神聖術師ギデオン・ジュラ。ゼンディカーからはエルフの精霊信者ニッサ・レヴェイン。彼が忘れ去った何処かの世界から、テレパスのジェイス・ベレレン。ドミナリアからは、屍術師リリアナ・ヴェス。神河次元の空民の学者タミヨウの力添えを得て、彼らは異界の巨人エムラクールを打倒し、その存在そのものをイニストラードの銀の月に封じ込めた。
そして三か月が経過した。
彼女は再び扉を叩いた、先程よりも強く。
扉の遥か向こうから、落下音とはっきりしない悪態の呟きが聞こえた。布地のこすれ音がしばし続き、毛布を呪う小声、それは寝具を、更にはありとあらゆる織物への悪口にまで拡大しながら、おぼつかない足音が堅木の床によろめき揺れながら扉へと近づいてきた。
「はあい、何。何よ?」 眠たげな女性の呟き声が扉の向こうから届いた。
「もう昼よ。起きなさい」
「そんなわけないでしょ。こんなに怠いんだから」
「扉を開けても?」
「駄目」 一瞬の沈黙、溜息、そして力の入らない指で鍵の位置を探る音。最後にもう一度沈黙。「待って。鍵かけてなかった。開けて」
優しく押すと、扉がきしんで開いた。大気の動きが彼女のドレスの暗い絹を鳴らした。扉の先で枠にもたれかかるその娘は銅色の寝癖頭を顎まで爆発させており、大きすぎる夜着の襟ぐりは開いたままで肩からずり落ちていた。廊下から入る光が日焼けしたそばかすの頬にかかっていた。彼女はうめき、琥珀色の目をこすり、戸枠に向かって呟いた。「おはよ、リリアナ」
「あらあら、ずいぶんひどい姿ね、チャンドラ」
チャンドラは寄りかっていない手で片目をこすった。「え? んー、あんたは元気そうで......」 そして手を放し、寝ぼけまなこで目の前の女性を見つめた。その瞼が引きつった。「......ほんとに」 その語尾は言外に「畜生」と言っていた。
「そう? ありがと」
チャンドラの肩の向こうから入る光は、引かれた分厚いカーテンの隙間から入る眩しい陽光の断片だけだった。寝室はまるでそそっかしいゴブリンに荒らされたようだった、もしくは熊が住んでいたような。四本脚の寝台の上にある筈の毛布は引っ張られ、樹脂を塗った床板の上に伸びていた。その先では柔らかすぎる枕だけが敷布の中央にそびえていた。
机の上は乾燥しきったけばけばしい色の塗料の瓶が数本、そして一つの大きすぎる食べかけの焼き菓子で散らかっていた。部屋の隅二つには衣服の山があった。薄闇の中、どちらが清潔なものかリリアナにはわからなかった。両方だろうか。三つめの隅には少なくとも二つの画架の残骸が焼け焦げて横たわっていた。
「昨晩は進んだ?」 リリアナは尋ねた。微風が廊下を走り、日に焼けた煉瓦と揚げ物の匂いを、群集のざわめきと楽団の音を、下の広場から運んできた。気まぐれな橙色の髪の一房が夏の風に揺れ、チャンドラの目にかかった。リリアナは手を伸ばしてそれを娘の耳にかけると、小声でたしなめた。それは藁のように乾燥して先端は枝毛になっていた。思うに、炎を発するためだろう。
「やめてよね」 チャンドラはそう言って、リリアナの手を退けた。「昨晩は何もしてなかったし。ただ出かけて......」 彼女は口ごもり、琥珀色の瞳で寝室の薄闇を見つめた。「ん、歌を聞きに。ブリキ通りの酒場で。バイオリン......みたいなのの演奏を」
リリアナは数百年の間、多くのひどい嘘つきに出会ってきた。だがチャンドラに匹敵する者は間違いなく少数だろう。彼女は胸の前で腕を組み、唇の片端を吊り上げた。「イゼットの空中レースを観に行ってたんでしょ」
「ちが......その通りよ」 彼女はあくびをした。「怒りに来たの? それとも何?」
彼女は軽く笑った。「何で私がそんな事を? あなたがやりたい事をやりなさい」 彼女は肩越しに、陽光が降り注ぐ廊下を手で示した。静かな、本だらけの部屋が並ぶジェイスの聖域。そして自由契約の慈善家のばかげた群れ。その二歩後ろをかぶりを振りながらついていくのがリリアナだ。「ここの誰も、あなたに何をしなさいとか言わないでしょ。そんな相手だったら私は絶対に署名なんてしなかったわ」
「何も署名なんてしてないくせに」
「署名は絶対にしちゃ駄目よ、可愛い子ちゃん。自由に生きるのが一番」 彼女は唇に指をあてた。「空中レースは間違いなく危険。でもエムラクールと戦った後なら、背中にロケットを背負ったゴブリンは間違いなく......あなたにとっては別に危険じゃないわね」
《ゴブリンの試験操縦士》 アート:Svetlin Velinov |
「靴にロケットを付けてたのがいたの。でも爆発しちゃった。ボフッ!って」 チャンドラの両手が握られて勢いよく広げられ、広がる汚物の雲を表現した。「そこらじゅうに肉の切れ端が飛び散って。本っ当にひどかった」
「素敵。ゆうべは楽しかった?」
若い方の娘はにやりと笑い、頬のそばかすが可愛らしく縮まった。「もちろん! 空中レースはほんと好き。あんなのを見たのは――」 そこで彼女の口は開いたまま、二度、素早く瞬きをした。「ん、久しぶりだったの。修道士のは規模が小さいし」 そして気まずそうに笑った。
リリアナは午後の太陽がチャンドラの髪にかかる様を見て、指の間のもろい感覚を思い出した。「厚切り肉が一時間以内に下に集まれですって。お客さんみたいよ」
「誰?」
「私は聞いてないわね」
「じゃなくて、......厚切り肉って?」
リリアナは再び唇の端を歪め、片手を腰に当てて待った。
「ああ!」 チャンドラは笑い声を上げた。「ギデオンね」
彼女は青白い指を宙に振り、大げさに両目を動かした。「同じこと思ってたでしょ。シャツを着てくれって私も一日おきに言ってるくらい」
チャンドラは左目をこすり、再びあくびをした。「あたしは気にしないけど。集まる前に朝ごはん食べたいな、昼か、どっちでもいいけど。一緒に来る?」
彼女は部屋を出ようとして、だがリリアナは片手でチャンドラのむき出しの肩を止めた。その皮膚は熱を発しており、まるで陽光の中に横たわっていたかのように妙なほど温かかった。彼女は気付いていた、ごく稀にチャンドラが五分以上落ち着いて座っていると、その膝は必然的に眠たげな猫を引きつけて小さな山ができるのだった。
「可愛い子ちゃん、行く前に下に何か穿いて欲しいわ」
「あんた何なの、私の――叔母さんか何か?」 チャンドラは不機嫌に言った。だが踵を返し、洗濯物の山の一つへとよろめきながら向かった。その足指が床板の冷たさに丸まっていた。どちらの山が清潔なのかという疑問が解決した、たぶん。
リリアナは宙へと澄んだ笑い声を上げた。「むしろ私のことは......お姉さんと思って欲しいけどね。どう?」
チャンドラは衣類の山からレギンスを一枚引き出し、匂いをかぎ、顔をしかめて肩越しに放り投げた。「私には兄弟はいないの。何にせよ、あんたは二百歳とかそんななんでしょ?」
「ええ、二百と二十九歳よ」
「鎧はいいの?」 階段へ向かいながらリリアナが尋ねた。
「家で? 今はね。会議に着ていった方がいいと思う?」 チャンドラはシャツの紐を見下ろしていた。結び目を解こうとしていたが、親指を絡ませてしまうだけだった。「下の階に置いてきたんだと思う。ジェイスが外套を全部しまってる部屋」 当惑したように彼女は唇を歪めた。「あいつ、凄い沢山あれを揃えてるのよ。ちょっと待って」
ある開いた扉の前で立ち止まり、彼女は親指を解こうとした。それはニッサの寝室の筈だった。カーテンは開かれており、使われないままの寝台と埃をかぶった机に午後の陽光が降り注いでいた。チャンドラは中を一瞥した。「ここに来て三か月になるけど、ニッサをほとんど見かけてないの。それこそイニストラード以来」
「ここでは見つからないでしょうね。貸しなさい」 リリアナはチャンドラへと向き直り、自由な方の手を除けた。今や、親指ともう一本の指が紐に繋がれていた。「あなたたちがここに来た最初の朝、蒸した死人みたいになったニッサがふらついて出ていったわ」
チャンドラははっとして口を開きかけた。
「大丈夫、大丈夫」 リリアナは溜息をついた。「私が知る限りの一番の例えよ」
「ああ......」
「信じなさいな、お嬢さん。私は古今東西ありとあらゆる屍術師の冗談を知ってるのだから」 悩ましい結び目へと指の爪をねじ込んで解きながら、リリアナは下唇を噛んだ。「『眠れない。角が多すぎる』みたいな事を言っていたわね。それ以来、あの子はずっと屋上庭園にいる」
「変なの」 チャンドラは塵の粒が宙に渦巻くのを見ていた。「あんたの方は?」
「私が何?」 リリアナはもう一つの結び目を引いた。
自由な方の手でチャンドラは額のゴーグルを更に上げた。「ジェイスはあんたにも部屋をくれたんでしょ、違う? 私達全員と同じく。でもあんたは自分で部屋を見つけて住んでるじゃない、ここじゃ何でもすっごく高いのに」
最後に一つ、強く引くと、チャンドラの手はようやく解放された。「他の誰かの情けに頼るのは嫌なの」 なるべく軽い口調に聞こえるようにリリアナは言った。そこには真実らしい美徳があった、完全な真実ではなくとも。「それじゃ、正しく結んであげるから」
ジェイスが金を出した部屋で眠る? それはただの「嫌」ではない。「絶対に嫌」だった。
「それと」 彼女はチャンドラのシャツの紐を叩いた。「もういじらないこと。次はきっと足の指が絡まるわよ」
「ありがと」 チャンドラはにやりと笑い、リリアナのむき出しの肩に温かな片腕を回して力を込めた。「お腹ペコペコ。エルドラージだって食べられそうなくらい。ねばねばの奴でもね」 そして階段へと飛び出した。「ラヴニカじゃ朝ごはんって全然食べないのね。みんな隠れて食べてるの? 夕ごはんは豪華だし昼のも長いけど、朝はないの。朝食に、固パンとバターとかさ」 チャンドラは酸っぱいものを食べたように顔をしかめた。「最悪よ!」
リリアナは穏やかに尋ねた。「だから朝起きてこないの?」
「ありえないったら」 チャンドラの振り回した腕がリリアナに当たり、警戒していなかった彼女はそれを受けてよろめいた。チャンドラはそれに気づかず進み続け、リリアナは打ち身になりそうなその部位をさすった。話に身が入り、自分だけに見える観衆へと身振りをしながら彼女は足を速めた。「聞いて。本当の朝食はフェヌグリーク入りナンから始まるの。ショウガと辛子、そして少しのヨーグルトを混ぜて。その匂いで目が覚めた時――」 彼女は言葉を切って、飲み込み、かぶりを振った。「漬けたマンゴー! マンゴーは最高。反論した奴には悲劇的な究極の過ちを謝ってもらうわ」
リリアナはかぶりを振った。「マンゴーって聞いたこともないのだけど」
「果物よ。多元宇宙でも他にはない味。少なくとも私が食べたものでは。完熟のやつにかじりつくと......」 彼女は両手を口の下で丸めた。「......果汁が顎を流れ落ちる。甘くてでもツンって鼻の奥にくる。ちょっとネズの匂いに似てるかな。口の中に陽が昇るみたいに。とっても大きくて、明るく弾けて溢れ出すの」
「それは少し......汚いわね」 リリアナは彼女を許した。
「まあ、ちょっとね。でも、その価値はあるわよ」 チャンドラは笑みを見せた。「二番目の選択としては、ヒヨコ豆は知って――あっ」 二人は広間へと入った。部屋の片側は緑に溢れた中庭へと続いており、その先には空が開けていた。手すりを滑り、チャンドラは動きを緩めて停止した。
「会議までもう一回はできるな。いつでもいいぞ」 ギデオンの声が轟いた。「さあ!」 そして分厚い手を叩く音が響いた。
彼女はチャンドラの横へと動いた。下方ではあの色男が、恐らくはテーロス次元の格闘技の構えをとっていた。攻撃を待っているかのように。その向かいでは、華奢なゼンディカーのエルフが片手で肩を掴んで立っていた。まるで彼女自身が折り畳まれて消えたがっているように見えた。
「だい、じょうぶ?」 彼女は草へと尋ねた。その声は途切れがちで、長く使われていなかったためかかすれていた。
彼の笑い声が石造の建物に響いた。離れたガラス精神が振動する音が間違いなく聞こえたとリリアナは思った。「来るとわかっていれば、私は難攻不落だ。大切なのは、君がどれほどやれるかということだ。自分を信じろ、ニッサ。もしそれができないなら......私を信じろ。絶対に受け止める」
「でも......」
「私は難攻不落だ」 彼は快活に繰り返した、完璧な並びの歯を光らせながら。
「わかったわ」 ニッサはやつれて窪んだ両目を閉じた。「ここで私が触れられる力は多くないの」
「庭でならできるはずだ」
「そうじゃな......ううん」 彼女は息を吸いこみ、片手を挙げた。
茂みが花を弾けさせた。薄紫色と白の花弁が突然の風に舞い、大気を濃い甘さで満たした。蔦が壁を這い登り、翠玉色の葉がうねり、翻り、あらゆるものの表面を覆った。草は伸び、曲がり、風の中で囁き、ニッサの探検靴を愛おしく包んだ。
草木が手すりを包むと、チャンドラは無意識に後ずさり、鋭く息をのんだ。
枝がうねり、より合わさり、四つ足の姿へと織り上がっていった。ゼンディカーの獣か何かだろうか? リリアナは数十年前に訪れたことがあったが、あの場所は長く滞在するには退屈すぎた。低木だったものは自ら地面から離れ、気難しい猫のように根の脚から泥を振り落とした。
その茂みの獣は――今やむしろ大木に近かった――きしみ、うめいた、まるで世界最大の揺り椅子のように。止まない雨のように薄い色の花弁をこぼし、花粉の粒が午後の太陽にうねった。前脚の先が一つの拳に組み合わさり、落石のようにギデオンへと振り下ろされた。
彼の皮膚が流れるような黄金色に輝いた。
そして叩きつけられた力のまま、その胸まで地面に埋まった。
ニッサは息をのんだ。手を振ると、樹木の獣は飛びのいて衝撃を響かせながら着地した。リリアナは蔦に覆われた手すりを掴んで身体を支えた。館のどこかで、陶器が砕ける音が聞こえた。何個割れたのだろうか。
「これは凄いな!」 ギデオンは騒々しく笑った。彼は穴の両脇に手をかけると、唸り声とともに身体を引き上げた。そして荒々しい動作で立ち上がるとズボンから黒い土をはたき落とし、笑みを閃かせた。「確かに私を傷つけることはできないが、地面については私も考えていなかった」
その樹木獣はまるで叱られた子犬のようにニッサへと鳴き声を上げた。「シーッ」 彼女は小声で言うと、その獣と額を合わせた。木の素材が触れた。「いいの、私がいけなかったの」
「良くやった」 ギデオンは逞しい手をニッサの薄い肩に置いた。彼女は身をよじって鋭く息を吸った。樹木獣は彼へと向き直り、身を震わせ、猫のような息とともに葉を鳴らした。
彼は後ずさり、両手を挙げて見せた。「大丈夫だ、大猫くん。お母さんを攻撃するわけじゃない」
ニッサはその獣に静かに手を置いた。「ありがとう。もう休んで」 それは木の手指と足指を地面に埋め、うなり、そしてただの庭木へと戻っていた。ニッサは再び独りで立ちながら、獣の最後の淡い花弁が周囲に舞っていた。
ギデオンは髭の生えかけた顎をこすった。「ジェイスがこの庭の手入れを大目に見てくれるといいが」
リリアナはチャンドラを一瞥した。彼女は爪先立ちで手すりから前のめりになり、眩惑したような笑みをわずかに浮かべていた。「落ちないようにね」
チャンドラは跳びのき、舌を噛みかけた。「あぶな。それじゃ行こ、お腹すいた!」
リリアナは笑みを浮かべ、後を追った。背後で、中庭の煉瓦にギデオンの声が響いた。「ニッサ、行く前にちょっといいか。私がよくやる、肩に手を置くあれだが、君は嫌だったか?」
リリアナは扉の前で立ち止まり、耳を澄ました。あのエルフが返答したとしても、その言葉は聞こえなかった。
「悪かった、気付かなくて。これからは止めるよ」 リリアナは彼の表情を想像できなかったが、その口調はあの茶色い瞳で濃い髭の男らしい正直さを滴らせていた。彼女の唇が苛立ちに歪んだ。
「ありがとう」 その声は葉が風に鳴る囁き程度だった。
「もし何か不快なことがあったら、言ってくれ。いいか? 特にそれが私の事ならば」
リリアナは口を固く閉じてチャンドラを追った。床板に靴が音を立て、軌跡には絹の裾が振り回された。その先を一言でも聞いたら、吐きそうだった。無論、あのエルフは謝罪と約束を受け取った。二百年前から、彼女は引くべき時というものを身に染みて知っていた。
ジェイスの図書室へ入る道は十ほどもある、彼女のシェイドが発見した隠し通路を含まずに。床から天井まで三階吹き抜けの本棚には全てが著者のアルファベット順に並び、主題ごとに配置されている。ここに来てから数週間が過ぎて、彼女は適当な本を取り出しては他の書棚に移していた。ジェイスが気付いたなら、気が狂ってしまうことだろう。
中央に置かれた大理石の机は通常、手際よく揃えて積み上げられたジェイスの記録簿に覆われている。彼はそれを個人用執務室へと移していた。館で全員が集まることができる机はその一つしかなかったため、この図書室は共用部屋となっていた。皆がその上で食事をとるようになった時、彼は目に見えて嫌がったものだった。
《ジェイスの聖域》 アート:Adam Paquette |
この日、机の上には水差しと六つのグラスだけが置かれていた。無論ジェイスは既にそこにおり、記録簿を読み進み、眉をひそめ、めくり、そしてラヴィニアの姿を気にしないよう努めていた。彼女は外への扉を守るように立ち、適度な距離をとって実用主義的に見つめていた。その両眼の奥にぎっしりと詰まった照合表と進度表が流れる様が見えるようで、それは何か重要なことが起こる時に備えながら行き来していた。
リリアナは彼女のような類の人物を何千と見てきた。従順で、注意深く、全くもって面白味に書ける。もしお気に入りの食堂があったとしても、とはいえとてもそうは思えないが、いつもの注文は温い水だろう。
ラヴィニアがその扉の傍に立っているのはほぼ間違いなく、ジェイスが何かの冒険へと飛び出してしまわないようにという意図からだった。無論、本気でここを離れたいと思うなら、ただ数分間一人になればいいだけの話だった。だが今や彼女もそれを知っていた。四人のプレインズウォーカーと共に生活するとなれば(そしてとてもありがたい事に、彼女自身も)説明が必要だった。ジェイスはギルドパクトに働きかけ、幾つかの細則と条項補遺を修正し裁可して彼女にその秘密を守るよう誓わせていた。
「ギルドパクト、まだそこにいるのですか? 返事をしなさい!」 ラヴィニアがそう言って隠し扉を叩く様を想像し、リリアナは独り笑みを浮かべながら椅子を引いた。
その音にジェイスは顔を上げた。「早かったな」 彼の声は驚いたようだった。間違いなくそれは侮辱だった。
「そうじゃないわよ。他の皆が遅いの」 彼女は批判するようにジェイスを上から下まで値踏みした。引き締まり、健康的で、警戒し、髪は梳いていた。彼女は内心それを嘘だと思った。「ねえ、幻飾はやめたら。誰も気にしないわよ」
彼は溜息をつき、揺らめきとともに幻影を落とした。そこには本物のジェイスがいた――顔色は悪く、髪はもつれ、夜更かしから目に隈を作り、顎には生えかけの可愛らしい髭が点々としていた。
「虚飾? あなたらしくもない」
彼は片手で後頭部をかいたが、そのでたらめな角度は全く宥められなかった。「全員揃う会議には最高の状態でいようと思ったんだ。企画の統率。信頼。自分が何をやってるかを知ってるからこその姿だ。で、何で俺は君にこんなことを言ってるんだ?」 彼は自身に対して苛立っているようだった。
リリアナは片方の肩を軽くすくめた。「私以上にあなたを良く知ってる人が他にいる?」 リリアナは自身の椅子にもたれ、片足を机の上に置き、もう片方の足首をその上に乗せた。ドレスの裾が衣擦れ音を立ててブーツから落ちた。
ジェイスは眉をひそめた。「それは行儀が悪いよ」
「ふん」
彼の両眉が苛立ちに乱れて上を向いた。「あと、気が散る」
リリアナは彼に物憂げな、怠惰な笑みで応えた。「覚えておくわ」 そしてジェイスの苛立ちを思いながら、近くの本の背表紙へと注意を向けた。
ギデオンが音を立てて二段ずつ階段を降りてきた。シャツを下ろしながらその様々な筋肉や皮膚が細かく波打っていた。「ああ、良かったわ。今日だって覚えてくれてたのね」 リリアナが言った。
ギデオンは彼女を見た。「何だ?」
「お気になさらず」 彼女はぞんざいな謝罪のように手を振った。「どうぞ、大将軍殿」
ギデオンがリリアナの向かいの椅子を引くと、ジェイスは記録簿を置いた。「だいたい揃ったな、じゃあ始めよう。チャンドラが来たら後から説明すればいい」
リリアナは瞬きをして部屋を見た。だいたいって――あら。ニッサは机から数歩離れた書棚の影の中、足を組んで座っていた。あのエルフはいつからここにいたのだろう?
「簡潔に言うと」 ジェイスは続けた。「俺は今もギルドパクトの仕事で動けないし、しばらく続くと思う。イニストラードから帰って来た時、俺の机は埋まっていた。冗談抜きで、仕事場は書類と本の山で迷路になっていた。机に辿り着くだけで五分もかかった」
かすかな笑みがラヴィニアの口の端に浮かんだ。リリアナはその女性の創造性についての評価を上方修正した。
ジェイスは指先を机に置いた。「俺は話を伝えてもらった――」
机の向こうで、部分鎧が鳴る音がした。ジェイスはチャンドラを睨み付けた。その紅蓮術師は両腕に鎧の各部分を山と抱えていた。「ごめん」 彼女は口に菓子を詰め込んだまま言った。大理石にシナモンの糖衣が落ちた。彼女はリリアナの隣に乱暴に座り、咀嚼しながら鎧を身に着け始めた。「で、なに?」 そして口の端から声を出した。
「もう一回言うけど」 大袈裟な平静さでジェイスは続けた。「タミヨウを通じて話を広げてもらった。ゲートウォッチはいつでも力になる、と。彼女や他のプレインズウォーカーがその情報を伝えていく。彼らは吟遊詩人みたいに旅の間に知らせや話を集める。けれど次の街ではなく、他の次元へとその言葉を伝えてくれる」
「どれくらいの人数がいるんだ?」 顎を片手の上に乗せてギデオンが尋ねた。「どのくらいの頻度で会うんだ?」
ジェイスはかぶりを振った。「彼らは俺達みたいに組織を作らない。形式ばらない関係の、噂話も同然だ。でも頻繁に移動し、多くの人々と話す。もし力になりたいという者がいれば、俺達のことを話すだろう。助けを必要とするなら、俺達に知らせてくれるだろう」 彼は言葉を切って、それぞれの顔を見た。「これはもう実を結んでる。俺達を探し出した人がいて、もう外で待っている」
ギデオンはにやりと笑い、椅子の上で背筋を伸ばした。それは彼の体重にきしんだ。「いい仕事をしたじゃないか、ジェイス」
ジェイスは頷いた。「客人というのはドビン・バーン。カラデシュ次元の発明博覧会とかからの公使だ」リリアナの右で、大気が熱を帯びた。「ラヴィニア、彼を通してくれるか?」
ふうん、公使。リリアナは机から足を下ろし、背筋を伸ばし、足を組んでドレスの皺を直した。細波がジェイスに走った。彼はリリアナが入室してきた時の、あの小奇麗で見栄えの良い幻影を再び召喚した。
向かいでは、ギデオンが考え込むようにその共通の準備を見つめていた。
チャンドラは椅子に深く座り、ゴーグルを目にはめ、胸の前できつく腕を組んでいた。
アート:Tyler Jacobson |
そのヴィダルケンの男性は長身で、決闘の剣のように痩身で、皮膚は青く、身なりは完璧だった。衣服は部分的に真鍮の渦巻と金線に包まれ、その小片がわずかに囁き、音を鳴らした。彼は両手を背中に組み、快活かつ正確な動きで階段を降りてきた。どうやっているのか、リリアナは訝しんだ。あの金属は絶対に袖でもつれると思うんだけど?
彼は一枚の絵画の前で立ち止まり、目をひそめ、そして片方の端を突いてわずかに上げた。
ジェイスが口を開いた。「バーン公使殿。こちらは私の同僚。ニッサ、ギデオン、チャンドラ、リリアナです」
紹介されるとリリアナは椅子から立ち上がり、喜ばしい笑みをまとった。彼女は会釈と挨拶をしたが、その目はバーンの目を見据えたままでいた。彼の瞳は熱意のあるせわしない赤紫色であり、その冷静な物腰とは魅惑的な対照を成していた。「ようこそ、公使様」 その動きは古いものだったが、彼がドミナリア宮廷の礼儀作法に精通しているとも思えなかった。
バーンは片腕を胸の前に当て、彼女へと深くお辞儀をした。その視線は彼女の目の前の床に向けられていた。「光栄に思います、リリアナ殿」
「快適にお待ち頂けましたでしょうか?」 机の端の無人の椅子を示し、ジェイスは尋ねた。
バーンはそれを一瞬の当惑とともに一瞥したが、動いて座ろうとはしなかった。「設備はとても快適でした」
ジェイスが作った表情はリリアナがその下に予想した不快さの欠片も見せなかった。「それなら良かった。ゲートウォッチはどのようなお力になれますでしょうか?」
「以前に書簡でお伝えしました件につきましてお話したく」
明らかにバーンの古風な言い回しを理解するために費やされた一瞬の沈黙の跡、ギデオンが咳払いをした。「失礼ですが公使殿、私達の全員がその書簡に目を通したわけではないのです」
バーンはゆっくりと息を吸った。「おや、そうでしたか。では要点を述べさせていただきます」 背中で手を組むと、彼はゆっくりと机の端へと向かって歩きだした。
「カラデシュ領事府の公式かつ正当なる代表として皆様方に謹んで申し上げます。無論私もラヴニカの政治体制と手段につきましては存じております。『ギルド』が相争うという皆様方の制度を」 バーンはその単語を優美に発音した、まるで何か稀な甘味を初めて味わうように。「我々の領事府はその対極に位置します。実力主義から成る単一の中央集権です。あらゆる資源は管理され、法のもとに等しく適切に配布されます。我々は誰も『求めなくて良い』社会を達成しております」
リリアナは右腕が日焼けしたように感じた。チャンドラを一瞥すると、その娘の頭には熱の陽炎が踊っていた。銅色の髪からはぐれた塵がその上昇気流に舞っていた。だが彼女は押し黙り、硬直し、歯を食いしばっているかのように顎の筋肉は波打っていた。
リリアナは椅子をそっと左へ動かした。
バーンは続けた。「六か月前の事です。領事府は首都ギラプールにて発明博覧会を計画致しました。明日朝に開会の予定です。様々な分野のアーティファクトが展示され、非凡な作品には賞が与えられます」
バーンは唇の端を上向きに歪めた、ごく僅かに。「来場者の安全のためにあらゆる提出物を点検するのは個人的に楽しくもありました。失礼かもしれませんが、審判者は多くの難しい選択を迫られていると信じております。少なくとも我々の著名人の一人は全く新しい類のアーティファクトを創造してのけたことは確かです」
彼は壁に並ぶ本棚の前で立ち止まり、肩の青銅を軽く叩いた。左目の前にレンズの列が音を立てて位置についた。彼はそれらを通してしばし覗き、眉をひそめ、そして一本のしなやかな指をその棚の表面に滑らせた。
「ここ数週間のことです」 彼は続け、踵を返しながらポケットからハンカチーフを取り出した。「再三に渡り、準備が乱暴者と造反者からの妨害を受けております。私の安全策によってかろうじて死傷者こそ出ずにおりますが」 彼は指をそのハンカチーフで拭い、注意深くそれを四つ折りにし、ポケットへと戻した。「しかしながら、この情勢不安の発生源を見つけ出し排除する試みは成功とは程遠い状態です」
バーンの目の前のレンズの列が肩鎧の保管位置へと音を立てて戻った。「以上になります」
ギデオンは咳払いをした。「つまりは、あなたはゲートウォッチに......警備をして欲しいと?」
「そういった攻撃の源を断つために、ですか?」 ジェイスが提案した。
バーンは一人一人を見て、息を吸い込んだ、まるで何か靴底の匂いをかいだかのような様子で。「その通りです。私の最初の書簡に記した通りに」
「その人々とは何者なのですか?」 ギデオンが尋ねた。「何故彼らはその『祝祭』を妨害しようとしているのですか?」
バーンは少々うつむいた。「ギデオン殿、それは筋の通った疑問です。筋の通った回答を提供できないことを恥ずかしく思います。改革派と称する者達の不満の種は多くがその熱っぽい頭の中だけの存在です。彼らが発しうる最大の異議は、領事府があらゆる者に等しく提供する配給は、彼ら個人にとっては『不平等』だというものです。単純に言うならば、彼らは自分達こそもっと相応しい量を共有するに値すると思っているのです。領事府がその我儘に目をつぶっている間に、彼らは好き勝手に政治的財産を妨害し、共通の善のために配布される資源を盗んでおります」
チャンドラが勢いよく立ち上がり、椅子が傾いた。リリアナは片腕を伸ばしてそれが床に倒れる前に受け止めたが、チャンドラは熱と火花に大気を揺らして荒々しく歩き出した。
「何を――?」 ギデオンはそう言いかけて、だが炎が明滅するチャンドラの手がかすめると彼はひるんだ。涙目になるような悪態を吼えながら、彼女は一段飛ばしに階段を昇っていった。
驚きとともに、バーンの目が彼女を追った。「それは解剖学的に不可能だと彼女もわかっていると思うのですが」
ジェイスはわざとらしく大きな咳払いをした。「バーン公使殿、宜しいでしょうか?」 図書室の巨大な扉が荒々しく閉じられると、ヴィダルケンは机へと向き直った。「その改革派の中に......プレインズウォーカーがいるのですか?」
「私は存じておりません」
ギデオンはかぶりを振った。「でしたら、我々が力になるものではありません。申し訳ありませんが――」
「待って」 ジェイスが身を乗り出した。「公使は、知らないと仰ったんだ。いるかいないか、俺達が解明することはできる」
バーンは熱を帯びた両目を閉じ、細い指で鼻先をつまんだ。「失礼ですが、皆様方の決定権をお持ちなのはどちらなのでしょうか?」
ジェイスとギデオンは顔を見合わせた。
「確かに......」
「あー......」
「ギデオンは戦闘における司令官で......」
「管理しているのはジェイスですが......」
「私達両方とも......」
「ですが俺達二人とも......」
バーンは頭痛を覚えたように頭を抱えた。
「バーン公使殿」 リリアナが割って入った。彼女は絹とレースをこれ見よがしに振り回して立ち上がり、最も無邪気な笑みを見せた。「私の......同僚が問題にしているのは、私達が何を見据えているのかという事です。ゲートウォッチは私達のような人々、プレインズウォーカーがそうでない者への干渉を止めるために結成されました。別の言い方をすれば、外からの問題を止めるために。今回の場合、公使殿の問題は、内からの問題であるように思えます」 彼女は偽りの無力とともに身振りをした。「私達は動けません」
バーンはゆっくりと、安堵の溜息をついた。「そうでしたか。感謝致します、リリアナ殿。貴女の立ち位置がようやく十分に把握できました。皆様方の水面下での役割分担を私は完全に理解しておりませんでした。無論、皆様を一つにする法を破らせることは私にはできません」 彼は再びリリアナへと頭を下げた。「大変失礼致しました。私もこの先更に研鑽して参ります。もし宜しければ、私はここで退出したく思います」
ジェイスは口をぽかんと開けてリリアナを見つめていた。その表情には困惑と驚きが争っていた。滅多に見られるものではなかった。
「ああ、お待ち下さい」 ギデオンが立ち上がった。「公使殿、せめて夕食を召し上がって行って下さい」
バーンは彼を見た、まるで頭がもう幾つか伸びたように。「ギデオン殿、ありがたい申し出を是非お受けしたい所ではありますが、私もカラデシュにて多忙な身です。出発以来、間違いなく妨害工作が数件は起こっていることでしょう」
ギデオンはバーンへと歯をみせて笑った。「プレインズウォーカーというのは厄介な存在です。貴方もその一人だと既に示して下さいました。貴方を空腹のまま帰らせるわけにはいきません。あえて言わせて頂ければ、歓待すべしという規則です。準備している間に、ジェイスの――我々の本部をご案内しますよ」
バーンは彼を軽蔑するように見つめた。「私の年齢と職業的に、それが受領可能な境界内であることは保証致します。とはいえ皆様にとってそれが問題になるとは思えません。それでも、出立する客人へと食物を提供するのが皆様の慣習というのでしたら、私もそれを尊重しましょう」
「それは良かった!」 彼は公使の肩を叩こうと動いたが、思いとどまって不恰好な伸びをするふりをした。
ラヴィニアが咳払いをした。「ギルドパクト。皆様が退出される前にもう一つ伝えるべき事がおありでは?」
ギデオンは動きを止めた。「もう一つ?」
ジェイスは苦い顔をした。「俺がゼンディカーとイニストラードへ行ってる間に、アゾリウス評議会の有力な議員が何人か......除名させられていた」
「それは問題だな」 ギデオンが言った。「だがそれが――」
「除名させられた、って言ったわね。殺された、ではなく」 リリアナが割って入った。
ジェイスは頷いた。「石化されていたんだ。文字通り石に」 彼は口ごもった。リリアナは眉をひそめた。ジェイスが言葉を失う? これは面白い。「一年くらい前だ。ゴルゴンの暗殺者がラヴニカで活動していた。プレインズウォーカーのゴルゴンが、アゾリウスに恨みを抱いて。俺はその女を止めたが......怒らせてしまった」
「女性をそんなふうに扱ったの」 リリアナが言った。
「重要なのは、その女はいずれ戻ってくると言ってたことだ」
ギデオンは顎をこすり、ラヴィニアへ視線をやった。「なるほど。その調査の責任者は?」
「まだ決定しておりません」
ジェイスはギデオンへと向き直った。「だから、君に調べてもらいたい」
彼はかぶりを振った。「それが最善だな、ジェイス。詳しい報告をくれ」
リリアナは一人一人に視線をやった。自分の立ち位置があるというのはとても喜ばしいことだった。多数決になるようであれば、自分が望む方へ物事を傾けるのはたやすくなる。
「俺がどれほど自分でこれを対処したいか、わかるか?」 ジェイスが言った。ラヴィニアの手が鞘を掴み、手袋の革が軋む音がわずかにあった。「でもあるのは山のような書類仕事だ」 彼は悪態をつくように吐き捨てた。「ギデオン、俺は......これは命令じゃない、そこはいいか? 解決しなきゃいけない事ってだけだ。俺は自分ではできないし、君はアゾリウスと上手くやれると思う。リリアナよりもずっと」
「ええ、それについては正しいわね」 リリアナは穏やかに言った。アゾリウスは自分を今もお尋ね者としていることはほぼ間違いなかった。四年前、彼女とジェイスがテゼレットの犯罪連合組織で働いていた頃から。あの頃からどれほどが変わったのだろう、そう考えるのはどこか奇妙だった。ジェイスは今やアゾリウスが力を借りる者、自分はギルドが対処できないほどに強大な存在となった。
彼女は鎖のヴェールを収めている隠しポケットに触れた。その存在感で自分を安心させる必要があるためではなかった。腿にその冷たい広がりを感じており、集中が途切れるとそれに取り憑くオナッケの霊の囁きが部屋の暗い隅からかすれて聞こえてくる。
「そういう事なら」 ギデオンはそう言ってゆっくりと頷いた。「わかった。ラヴィニアさん、アゾリウスが把握している内容の概要を頂けますか」
その護衛は呆れたようだった。「概要ですか? ジュラ隊長、証人陳述だけでも合計で数千――」
「私は知らないんです」 彼は気楽な笑みを向けた。「貴女の専門知識に頼らねばなりません。尋ねたいことは山ほどありますが、今夜のために知るべきことは何でしょう? 少しだけでもありがたい」
ラヴィニアはその視線に取り乱した。「かしこまりました、閣下」
「ありがとう、ラヴィニアさん」 ギデオンはバーンへと身振りをして部屋の隅の扉へ向かうように示した。「ジェイスの料理人の腕前は素晴らしいんですよ。間違いなくギルドパクトならではです。お好みのものはありますか?」
ジェイスは平穏の幻影を解き、リリアナの笑みを睨み付けた。
「私はもっぱら非発酵のパンの塊と、薄切りの肉と、水でできておりまして」
大きな笑い声。「もっと良いものをお出しできますよ!」 そして彼らは廊下へと向かっていった。
ラヴィニアは小さな台帳に書きこみをしながら、足音を立てて去った。
そして彼らはまた二人きりとなった。
ジェイスが書類を集める間に、リリアナは机と彼の執務室への扉の間に立った。ジェイスは彼女が待っている姿を認めると顔をしかめ、顎を引き、そして遠くを見つめながら通り過ぎようとした。彼女は温和な、度量の大きな笑みを浮かべた。「ねえ、これからは私に話を任せてくれたりするの?」
「ああいうのはやめてくれ」 ジェイスの声は彼女が予期していたよりも低く冷たかった。「入り込んで持ち去っていく。まるで何もかもが、全員が君のものみたいに。そして俺に礼を言わせるんだ」 ジェイスは彼女に肩を向け、かすめるように通り過ぎた。
「前は楽しんでいたのにね」 その言葉は反射的に、自発的に口をついて出た。どちらにとっても苦痛となる言葉。壊れた互いの関係に踏み込むような。
そして怒りの言葉だけを残し、ジェイスは去った。その一言一言が氷の破片と化して彼女の心臓に弾んだ。
ああ、憎たらしい。いい気分が台無しになってしまった。彼女は片手で目の下を拭い(そこに何もないことをただ確かめるためだ)肩に力を込め、顎を持ち上げた。だったらあいつとグリクシスへ行こう。チャンドラが何処へ飛び出して行ったのかを確かめよう。面白いことになりそうだった。
彼女は階段へと向かい、ニッサの椅子が空であることに気が付いた。あのエルフはやって来た時と同じく、慎み深く去っていったようだった。
二階への階段を半分ほど登ったところで、ニッサがこの会議の間に一言も声を発していなかったとリリアナは気が付いた。
殴り続ける。
衝撃が腕に走る、不規則に、立て続けに。ギデオン製のサンドバッグはその攻撃に揺れ、よろめいた。
一定間隔で腕を伸ばして、短く狙いをつけて突け。あいつはそう言うだろう。これは悪すぎる動き。これも、あいつが領事府の奴の話を聞いてるせいだ。
発明博覧会? 馬鹿じゃないの。カラデシュでも最高の発明家を殺しておいて。バーンの奴とその仲間が。領事府と、そいつらの馬鹿馬鹿しい規則が。
今、そいつらはまた誰かを狩り立てようとしている。誰かの子供を。もしかしたら誰かの――
サンドバッグの布地が燃え上がった。
「やばっ!」
確かここには――あいつはここに飲み水を置いていた。あいつは王様みたいに水を沢山飲む。部屋をざっと見た。重し。格闘技用の床の枕材。もうジェイスには投げるなと言われた大きな球。また重し。説明されたことのない妙な材料の棚。更に違う重し。あった!
机の上を滑って、窓の下にある手桶を掴んだ。変な香りがした。もしかしたらあいつはこれに頭を浸けてるのかもしれない、わからないけど。要るのは水だった。
背後で布地が破裂し、砂が床の上に音を立てていた。
ああ、まずい。
燃え上がるぼろ布の塊に水をぶちまけた。
そして泥の大きな山ができた。床が汚れる? 靴先でそれをつつき、塊に沿って線を描いてみた。砂の城が作れそうだった。
これが嫌だった。優しい誰かのがらくたを壊してしまう自分が嫌だった。ギデオンの奴が、お父さんとお母さんを殺した奴等と仲良くしているとしても――
両目がまた熱くなった。バケツを落とし、両目をこすった。火花と燃えがらが流れていった。
いい気味かもしれない。サンドバックを駄目にされるくらいは。
そもそも、どうして私はここにいるの? 私はここの人間じゃない。
レガーサに戻るべきなのかもしれない。丸太が燃えるのを夜じゅう見張って過ごす変な儀式をしている所へ。少しずつ少しずつ、それは輝きはじめる。赤、橙、黄、ゆっくりと吼える。燃え上がって、また消える。そして色を失って灰へと消える。「これこそが、神性に貪られるということです」 ルチ修道院長が言っていた。「変化です」 古い生が剥がれ落ち、ああだこうだ。
どんな神性? エルドラージ? ギデオンを騙した奴等? 触れるもの全てを燃やす神なんて信じられなかった。神ってもっと良いもののはずだから。
あの池を思い出す。
その中を見つめると、脚の力が入らなくなる。
私はそこにいた。見た。誓って言うけど、私は見た。
あの子は緑の中に浮かんで、私は息ができた。
行きたい。そこへ行きたい。
行かなきゃいけない。
ひっかかれる痛み。背骨を這い上がって、髪の下へ。今すぐ行きたい。
足はもう扉へ向かっていた。駄目。止まって。そんなふうにふらふらと出ていくのは駄目、そして......私は、変? じゃなくて礼儀知らず。私は無理矢理割って入るような奴だって、あの子には思って欲しくない、そして......ううん、もしかして私はそういう類なのかもしれない、そうするような、でも私は本当に目いっぱい、行儀よくしようとしてた。ほんの数分あれば――
どういうこと。私はもう階段を昇ってる。そして大男みたいに廊下を闊歩してる。両脚は震えて頭は焼き付いてる。これは変。片足をもう片足の前に出すのを止めたい。引き返したい。爪先立ちで本当に静かに、臆病なネズミの赤ん坊みたいに階段を降りたい。今すぐに。やめなさいチャンドラ、扉を開かないで。一か月前には無かった大きすぎる花に見とれるのはやめて。悪い子、シナモンの菓子はないのよ。ただ振り返って、階段を降りて、こんなことを考えるのは二度と――
「チャンドラ?」
ザザザザザザザザザッ......
「や......や。ニッサ? そこにいたの?」 そう、その通り。いつも通りに。何も知らないように。何もかも無関心に、リリアナみたいに。全然リリアナには敵わない。
「そうね、え、ここにいたんだ、ここで話してたから、ええとつまり、そう、ちょっといい? もしかしたら」 ああもう、口を閉じるのよ。
「ええ。私はこの後ろに――紫の花の後ろに」
震える手で枝を押しやってその声へと向かった。葉はまるで紙やすりみたいだった。ほんの少し先で――
その子は斑の苔の上に脚を組んで座っていた。まとめられていない黒い髪が肩に波打って膝まで流れていた。その頭上には小さな花冠、そして蝶が周囲を舞っていたが、その子は全く気にしていなかった。光の柱が木漏れ日となって黄金の陽光でその子を彩っていた。誰もが持つ子供時代の最高の記憶のような香りがした。
その目は私に向けられてはいなかった。その子はただ座っていた。耳を澄ましていた。待っていた。私は痒みを感じて、汗が噴き出た。
最後にお風呂に入ったのはいつだったっけ? エルフは犬並みの嗅覚を持つとかそんなじゃなかったっけ?
そして私は枝の下にかがんで、おどけた馬鹿みたいに葉っぱを掴んで顔から離した。「ん、座ってもいい?」 私は口で息をした。意識して、大きすぎる声を出さないように。
「どうぞ」 その子は示した。腕の動きは水のようだった。流れのようだった。
そして私は動こうとして、つまずいて顔から倒れ込んだ。
「あっ!」 その子は手を伸ばしたものの、その指は私から手一つ離れた所で見えない泡に弾かれたようだった。「そこに根が......」 そして手を引っ込め、それをもう片方の腕で抱きしめた。
「大丈夫!」 私は泥の中へ元気よく言って、膝をついて頭を掴んだ、本当に大丈夫かどうか確かめるために。顔から血が出ていたら、すごく気まずいことになりそう。「大丈夫?」
彼女は首をかしげた。「え......」
「あはは! そりゃそうよね。ごめん、顔から転んだのは私なんだし」 黙れ、黙りなさい。
私はその子みたいに座ろうとしたけど、向こうずねの鎧が腿に食い込んだ。木に寄りかかって両脚を伸ばして足首の所で交差した。
待って、私の足はほとんどニッサの膝に触れそう。そうするつもりはない。きっと嫌な気分にさせる。私は体重を移し、両足を別の側へと向けた。
これでよし。太い根がお尻をつついてるけど。
その子はただ私を見ていた。静かに。辛抱強く。
私はくすくす笑って、汗をかいた額から髪をはらった。その視線の中で私は湯気を上げ、皮膚は溶けきっていた。「花を踏み潰しちゃったかと」
「大丈夫よ」 その瞳はとても深かった。子供の頃、こんな泉がギラプールの外にあった。水がなみなみと湛えられてて、その上は苔と浮草がびっしり育っていた。深くて、暗くて、静かだった。もし落ちたら底なし、そう言われていた。私はその端に立って、落ちそうになる恐怖を楽しんでいた。
その子は咳払いをした。「何か力になれるかしら?」
私は息を吸い込んで、だけど喉はからからで中々声は出てこなかった。「わ、私はただ考えてて――ゼンディカーのあの時、私達の心が触れた時。あれはゼンディカーの怒り、違う? 世界ひとつの力を感じたの。あなたの世界を。あれは、本当にすごかった。今までで一番信じられない経験だった。でもゼンディカーの向こうに、怒りと力の向こうに、あなたがいた。あなたの心があった。わかる、あなたは本当に穏やかだった。まるで......私を集中させてくれたように、そう思う。あなたは何もかもが静かで一貫してて――」
そして私の思考は切れて、でも口は危なっかしく動き続けた。
「あなたのどこかに触れた時、あなたは泳いでるみたいで、ただ横たわって揺れながら、空を見上げてた。その下には何もなかった。ただ上には青い色と空があって、何もかもが涼しくて静かだった。あなたはずっとそれを見ていられて、何も考えなくてよくて......」
私は何を言っているの?
私は汗ばんだ髪に手を走らせた。「は......はは。うわ。変よね? 私はここに来て、下手な詩をわめきだして――」
ほんの僅かな笑みがあった。「ううん、すごくよくわかると思う」
私は髪を一房掴んで痛くなるまで引っ張った。これで集中できると思った。「とにかく。私は考えてた、凄く――えと、本当に怒った時は、だいたい何かを燃やしてた。でも考えたの、その場所にまた触れられないのかなって。あなたの心が感じるような、平穏、地に足のついたような。つまり......」 顔を上げたのが間違いだった。丁度そこには目があって、見つめていた。私の喉の空気は完全に固まって動かなくなった。
私は呼吸を取り戻そうとうめいた。「ジェイスにとってもその方がいいだろうし。そうすればあいつの家を壊さなくて済むし、つまり、あいつはこの高い家をずっと使えるし」
「瞑想の仕方なら教えられるけど、希望するなら」
「えっと、そうね」 続けよう。いい響きだ。
形の良い眉が曲げられた。「気分が悪いの? 何か不安そう」
庭では銀色の破片がそこらじゅうに舞っていて、ジェイスの家を燃やし尽くしてしまわないように一時間もずっと我慢してきて、そして私の心臓は長い距離を走ったみたいに胸骨の中で暴れていた。聞いてくれて本当にありがとう。
その代わりに私はわめいた。「それは、あなたがずっと私を見つめてるから」
「あなたは私に話してるけど、見つめない方がいいの?」 その唇は間違いなく震えていた。「これは――あなたの世界では相応しくないの?」 その子は初めて目をそらし、草の匂いのする耳に片手を触れた。白い頬は夕日の色を帯びていた。
私は一体何を言ったの?
「わ――う、うう、違うの! つまり......ごめん!」
私は動こうとして、頭を低い枝にぶつけた。「あっ! ご――ごめん、馬鹿みたい」 私は後ずさり、頭を掴んで両肘で燃える目を隠して、さっきの忌まわしい根を越えて、震えて激しく息をつきながら胃袋が悶えていた。私は何をしたの、何をしたの、何をしたの?
その子は息をつきながら追いかけてきた。「待って」
「変なこと言ってごめん、行かないと。行くから。ごめん、じゃあね。ごめん」
「チャンドラ、お願い......」
私は背を向けて走った。火花を残して、回りの木や花をかすめて、扉を強く閉めた。
......吐きそうだった。
「大惨事ね」 リリアナは呟いた。彼女は「厚切り肉」の運動場の扉にもたれかかっていた。階下の出来事から、彼女は炎による惨状を予想していた。砂の城は驚きだった。
ギデオンの声が背後、階段の下から響いた。「この上が訓練場です。チャンドラとジェイスを訓練しています、お判りかと思いますが緊急の場合に備えて全員が実際に武器を扱えるように」
「これまで見せて頂いた施設同様、さぞかし素晴らしいことでしょう」 バーンが疲れたように返答した。
バタン!
彼女は驚き、振り返った瞬間チャンドラがバーンとギデオンの隣を猛烈な勢いで過ぎていった。赤毛の彗星が両目から燃えがらの跡を残していた。
「あんたの物を燃やしてごめん!」 走り去りながら、その言葉はくぐもっていた。
そして彼女は去った。足音の雷鳴が階段を下っていった。
「気を付けろ! 落ちるぞ!」 ギデオンは彼女へと呼びかけた。
リリアナは階段吹き抜けへと歩み出て、上を見上げた。ニッサが両手を組んで胸に当てて見下ろしていた、その唇は声にならない混乱に開かれ、長い耳が垂れていた。
リリアナはかぶりを振って階段を降りはじめた。誰かがこの混乱をどうにかしないと。チャンドラはわかりやすい。わかりやすすぎる、凄まじい力を振るいながら。それは便利な組み合わせだった。
太陽は西に傾き、長く熱い午後を終わらせようとしていた。東に平らな雲が低く広がり、夏の大気を冷やすのではなく蒸し暑さを増すような夕立を約束していた。
彼女を大いに悩ますのはその暑さではなかった。屍術には書物に滅多に言及されない利点がある。例えば、治療師を警戒させるほどに低すぎる体温。そのため夏はずっと過ごしやすくなり、また彼女の息は温かいものではなく凍り付いていた。ジェイスは異常なほどにそれに敏感だった。首筋にごく僅かな息が当たるだけで、彼は睡眠から目覚めるのだった。
彼女は眉をひそめ、断固としてその記憶を心から押しやった。
チャンドラを発見するのは難しくなかった。ただ走っている時でも人々や物に衝突する傾向を脇においても、煙を上げるあの髪は、広場に点在する食べ物の屋台とは少し異なる色を示していた。捜索を手伝うシェイドを召喚する必要すらなかった。
彼女はジェイス宅から三ブロック離れた小路の半ばにうずくまっていた。小路の入り口はかすれた声の食べ物売りの背後に隠され、その荷車は安物の豚肉と茹ですぎたキャベツの匂いを放っていた。膝の上に顎を乗せ、煉瓦の壁に背をつけ、彼女は銅色の髪を手に掴んで引っ張っていた。
小声の囁きが小路の入口から響いていた。「馬鹿、馬鹿、私の馬鹿......」
どうしたものか。リリアナは堂々と角を曲がり、スカートの裾を注意深く持ち上げて、虹色の汚れが浮かぶ水たまりを避けた。「あら、チャンドラ。奇遇ね」
彼女は驚いて立ち上がり、震える手の甲で鼻の下を拭った。「あ、や、何――こんなとこで何してるの?」
「買い物の途中よ」 リリアナは即席の嘘をついた。彼女は信じるだろう。リリアナお姉ちゃんは豪華な生き方や何やかんやの第一人者なのだから。
チャンドラは鼻をすすり、詮索するように懐疑的な表情をした。「こんな裏道で?」
「一つの場所に全部の店が揃ってるわけじゃないわよ。一緒に来る?」
チャンドラは彼女の向こうを見た、小路の先で、午後の光に群集の影がひらめき踊っていた。「他には誰かいるの? ギデオン?」
「幸いなことにいないわよ。あれは死ぬまで私と買い物はしてくれないでしょうね」
彼女はにやりと笑った。「でもそうなったら、蘇らせて鞄を持たせられるわよ」 そして言葉を切った。「ただ私に屍術師流の冗談を言わせるために?」
「今回だけ。あなたが気に入ってるから」 ごく僅かにチャンドラの肩の強張りが緩んだ。良かった。
チャンドラは再び鼻の下をこすり、そして唐突に腰に巻いたショールで手を綺麗に拭った。「で、何を買いにきたの?」
「そうね、すごく重要なものはないんだけど」 リリアナは気取って言った。「ワインを一本、死んでそのまま七日から十日経った猫を六匹、好みでラベンダーの香りの蝋燭、十二インチの骨の鋸......」
チャンドラの口がぱくぱく動き、そして言葉が出た。「そ......それは冗談?」
「なら一緒に来て見るといいわよ。歩きながら話しましょう」
何もかもが暗かった。冷たかった。静かだった。湿気が彼女を包んでいた。彼方の暖かさはとうに弱まり、ごく僅かだけが背中にかろうじて当たる。永遠の時を待っていた。割れた氷と降り注ぐ雨の月の下、頭上で儚い生命が過ぎゆくのを感じながら。
動く時だった。
ゆっくりと彼女はほどけ、自身を圧迫する柔らかさを押し返した。四肢を伸ばすと、暗闇の中で過ごした永遠の時に軋んで震えた。そこかしこで兄弟姉妹が身動きをするのを感じた。誰もが背中に叩きつけられるような温かさを感じた。それは呼びかけていた。ついに、出会う時が来たのだ。
ニッサ......
頭上の重みを押しやった。緊張した。青白い、細い踵が腹部の下のベルベットの深みへと沈んだ。更にその下では未だ冷気が潜み、唸りながら、澄み切った水晶の刃を見知らぬ場所へと伸ばしている。彼女は緊張に震えた。
あるいは、できないのかもしれない。永遠にこの下にいるのかもしれない。失われ、忘れられた抜け殻の中へ崩れて落ちる。死んではいない、だが決して生きてもいなかった。
......ニッサ?
頭上で暗闇が破れた。
彼女は震え、頭痛を覚え、不安定な両脚を押し出した。両腕も震えて上半身から離れてしまいそうに思えた。あらゆる動きが苦痛だった。打ちのめすような熱が冷たく詰まった血を流させ、四肢を力と色で満たした。頭を光へと向けると、髪が広がった。
「ニッサ?」
アート:Zack Stella |
その言葉は遥か彼方から彼女にひびを入れた。
そして一息とともに、強く引かれた。
世界がひらめいて過ぎていった。木と茸がごたまぜに伸び、共に息をしながら互いを繰り返し追い抜いていった。塵が囁く不毛の地に、じっと石を食む。雲は呟きながらその身を眼下の大地へと開く。斧の刃の形をした石が広い空に並び漂う。水は深く、冷たく、空虚。
彼女はギデオンへと瞬きをし、彼がうめく獣の声に――言葉、彼女の内のどこかがそう正した――一瞬当惑して、そして棍棒の形のものが――指が――目の前で揺れ、突然、熱でなく光を見た。「私......」
私は種じゃない。
ニッサ。私はまた、ニッサ。
彼はニッサの言葉を待つように見つめていた。雨がジェイスの図書室の窓を叩いていた。言葉を発したが、それはかすれて軋んでいた。「ごめんなさい、ギデオン。何て言ったの?」
彼は歯を見せた。笑顔を。「少し眠っていたようだな」
「私は......」 半ば離れた世界で、春のツンドラに一輪の花が首をもたげ、初めて触れる太陽を喜んでいた。彼女は皆の顔を見たが、理解の余地は見当たらなかった。説明できる言葉はなかった。
「......考えていただけ」 彼女は膝へと視線を落とした、手つかずの食事がそこにあった。
彼は皿の上の肉塊を指に埋もれかけた道具で――フォーク、そう思い出した――突き刺した。「君がゼンディカーで成し遂げたことをバーン公使に伝えていた所だ。君とチャンドラが」
チャンドラ。そばかすの頬に血が熱くうねる、鋭くて素早い手の動き。まるで鳥のように。
ニッサは庭で時折鳥に餌をやっていた。空腹の彼らは自分の手に包まれた種を欲し、だが動きを誤ると飛び去ってしまう。
自分は動きを誤り、チャンドラは飛び去ってしまった。
感覚と本能が完全に閉じてしまっていた。
ここへやって来て以来、ラヴニカに絶えず打ちのめされていた。熱い、絶え間ない獣の息が首の後ろにかかる。太陽は眩しい白色で、匂いは濃くて不快だった。あらゆる地面が切りつけ引き裂くための刃を持っているように思えた。
果てのない顔の列が奇妙に、恐ろしく、街路にひしめき取り囲む。考えたこともない程多くの顔。それらが融け合い、千の顔を持つ一つの怪物と化して自分を押しやる。建物の間を歩くと彼女は汗ばみ、震えた。ひしめいて騒々しく押し、蹴り、突いてくる。その姿から顔をそむけようと彼女はうずくまり、ひび割れた敷石の間にもがく孤独な花を観察していた。
静寂は何処にもなかった。日中には金床の不協和音が鳴り響いていた。千ものかまどで果てない宴会が蒸気と轟音を上げる。夜にはセイレーンのむせび泣きとひび割れるようなマナの音。何万もの音が常に声を、悲鳴を上げ、苦痛と悲嘆、欲望と怒りにうめき、争うように重なり合う。三か月の間、木々を揺らす風の音を聞いていなかった。何も聞いていない、という瞬間はなかった。
顔。騒音。万と一つの慣れない匂いが喉に居座って首を絞める。それを我慢できなくなった時、彼女は庭に縮こまって耳を塞いだ。そして木々が安全を守ってくれていた。
ここの全てが硬く、眩しく、鋭すぎた。
チャンドラ。曙光のようなその瞳。あらゆる思考がその顔に堂々とよぎる。怖れることなく。
ああ、ゼンディカー。私はどうして彼女の感情を害してしまったの? 何をしてしまったの?
だが彼女の友は――最良の友、二年に渡って離れることのなかった相棒は――答えなかった。心の片隅、ゼンディカーが生きていた場所は静かで空虚だった。私にわからないことが沢山。あなたがここにいてくれたらいいのに。
彼女はこれほど多くの人々の中にいたことも、それでいてこれほど孤独を感じたこともなかった。
「ニッサ?」
「ええ」 彼女は椀から小さな赤い果物を取り上げた。トマト、ジェイスはそう呼んでいた。水気と張りのある表面、かすかに酸っぱい匂いがした。「何か知りたい事があるの?」
彼女の目が痛むほど正確な角度でバーンは食器を皿の隅に横たえ、そして指を数本立てた。「好奇心からですが、もしよろしければ、ニッサ......殿」 その肩書は囁き声で、眉をひそめて発せられた。「貴女は自然発生した魔法的配列を認識し、変化させられる能力をお持ちだとお聞きしました。大地を貫いて、本当ですか?」
部屋の隅に置かれた時計の音を際立たせるように、彼の上着を飾る黄金の線条細工が柔らかく鳴った。ニッサはその内なるエネルギーが焼け付き折れる音を聞いた。ギデオンには聞こえない、そして恐らくはバーンにも。彼の耳は人間のそれと変わらぬ程に小さい。
彼女は答えた。「力線です」
彼は鋭く息を吸い、鼻孔を縮めた。「実に興味をそそる対比です。私の世界では、同様のエネルギーが空の更に上方を流れております。霊気と呼ばれるものです。我々は山の頂から、もしくは飛行機械を用いてこの力を吸引し、機械装置の中に溜め、放出して様々な製品に使用しております。そちらの世界の人々も同じことを?」
鋭い刃のような石が宙に浮かび、世界を歪めている。網、檻、......格子。
吐き気の波が彼女を襲った。
「いえ」 彼女は肩を縮こまらせ、椀へと向けて言った。「そうしている者もいますが、彼らは......」 その言葉は歯の裏側で詰まった。どこから話せば良いのだろう?「そうではなくて......私達が大地へ尋ねるんです。私達は奪いません」
「尋ねる?」 響く声が軽蔑的に発せられた。「尋ねる相手がいるのですか? 貴女の力線は自然に発生した現象ではないのですか?」 塩辛い軽蔑の込められた軽薄な声だった。彼の両目の形状が変化し、組織が不快な角度をとった。「根元に鉄を作ってくれと山に尋ねるとでもいうのですか? 食物をくれと木々に頼むとでもいうのですか?」
「そうです」 彼女はそれだけを言った。そしてトマトを口へと運び、噛みついた。水気が溢れ出た――打ちのめす鋭く白い太陽光、先立ったものたちの残骸が加えられた、暗い色をした土の列。優しく耕された小道を、エルフとドライアドが黙って静かに通り過ぎる。傾けた缶が一時の、真似事の雨でその葉を叩き震わせる。
一つの生涯がここに運ばれてきて、口一杯の新鮮な甘さとして広がった。何か月もの忍耐。ありがとう、彼女はそう思い、飲み込んだ。
ギデオンが椅子の上で身動きをし、わずかにニッサとバーンの間へ身をのり出した。「公使殿、ニッサの世界では......物事がかなり異なるのです」
部屋の隅の重い扉が開き、消耗した様子のジェイスが入ってきた。その後をラヴィニアが続いた。「心から飲み物が欲しいよ」 彼がそう呟いた時、ラヴィニアが彼の手に器を押しつけた。その湯気はレモン、ハイビスカス、そしてニッサにはわからない幾つかの薬草の香りを放っていた。彼はきょとんとした。「なんで知って......?」
「貴方を案ずるのも私の役目です、ギルドパクト」 ラヴィニアは乾いた声で言った。「お食事を温めさせましょうか?」
「いや、ありがとう。ラヴィニア」 彼は椅子を引いた――古い樫の木。暗色をして、長年の太陽に擦り減っていた。この椅子は何処から来たのだろうとニッサは訝しんだ。この家よりも遥かに古い。その内にあった生命は今や囁き一つ程度で、曇りの日にかかる影だった。
ジェイスの皿には幾つかの薄黄色の塊があった、チーズや穀物。冷たくなっていても、ニッサはその匂いを部屋の向こう側から感じた。彼は顔をしかめた。「何でブロッコリーが入ってるんだ?」
「鉄分が必要です」
「嫌いなんだよ――」
「気付きもしなかったではありませんか」 その声に議論の余地はなかった。
バーンは彼を冷淡に見つめた。「まるで子供ですな」
ジェイスは最初の一口を頬張り、どうにか飲み込んだ。「ん、う、私は子供の頃を思い出せないんです」 その両目には、十もの声なき思考がちらついていた。
そのカラデシュ人は額に皺を寄せた。「経験に影響された習慣的な振る舞いを考えるにあたって、特定の出来事を意識的に思い出す必要はありません。それまでの生涯を完全に忘れてしまうというのも、想定できないわけではありません。全てを忘れたとしてもその者は同じ類の誤った決断を下し、そして同じ類の人々を引き寄せ、集める。私は本心からそう思います」 彼は片手を振った、雄牛が尻尾で蠅をはらように。「純朴に信じる者もおりますが、命ある者にはそれほど柔軟性はありません。例えば、宗教的性向を持つ者は自身よりも偉大な何かしらを見つけるものです、その信仰を向けるために。犯罪者はどこまで行こうとも犯罪者であり続けるでしょう」
ジェイスはフォークを置いた。「それは実に......決定論的な視点ですね、公使殿」
バーンは瞬きをした、まず片目で、次にもう片目で。目配せではなく、だが彼独特の仕草の一つだった。ニッサが見てきたどのようなものとも違っていた。「命ある者の集合は、その心であっても、一連の複雑な機構というだけです。その機構を調査して動かし、正しい結果へと導くのは単純極まりないものです」
そして沈黙があった。ジェイスは咳払いをした。「見学はお楽しみいただけましたか?」
ニッサは食事を見下ろした。そして蒸し魚の一切れを摘み上げ、舌の上で溶けるのを味わった。流れるような銀の身体が緑色の影の下にひらめく。浮かぶ泥炭の粒、かすかな金属の苦味。それは彼女がよく知る言語ではなかったが、意味するところは同じだった。ありがとう、あなたが知恵と一緒にくれたものを頂きます。
バーンが椅子に背をもたれると、それは軋み音を上げた。「お気付きになって頂きたい構造的、組織的欠陥が多数ありました。下階への張り出しを支える梁が割れています。力がかかりすぎたら参ってしまうでしょう。ほとんどの寝室において家具の配列が能率を下げています。表現は不正確かもしれませんが、多くの無駄な空間ができて床が狭くなり効率的な使用ができません。この図書室では十七冊の本が正しい書架に戻されていません。二階の灯火は幾つか、通気からの適切な防護に欠けており......」
「書き留めておいた方が良さそうだな」 ギデオンが言った、歪んだ笑みで。
「俺が全部覚えとくよ」
バーンは言葉を切った。「お聞きしましたが、ギデオン殿の運動場での事故は皆様の雇用されている紅蓮術師によるものであると?」
「『雇用』はちょっと強すぎる言葉かもしれません」
「皆様方の雇用形態は存じませんが、正しい予防策の欠落は嘆かわしいものです。こちらの図書室の蔵書は分野も選択も素晴らしい。ですが紅蓮術師にとっては、ただの可燃物です。もし火災がここで発生してしまえば――」
「チャンドラとは......意見が衝突することもあります。ですが彼女のことは信頼して......」 ジェイスはそこで言葉を切った。「チャンドラは何処に?」
ニッサは顔を上げた。チャンドラのいつもの席は無人だった。
ギデオンは肩をすくめた。「私も探した。皆の備品は適切に扱うようにと言いたかったからな。最後に見た時、彼女は屋根から駆け下りて――」
ニッサは息をのんだ。
「――それをリリアナが追っていった」
ジェイスははっと顔を上げた。扉の傍で見守っていたラヴィニアが切り出した。「ギルドパクト。報告しても宜しいですか?」
「え? ああ!」 ジェイスは椅子の上で身体の向きを変えた。「二人の居場所を知ってるのか?」
ラヴィニアはごく僅かに背筋を伸ばした。「少し前です。ジュラ隊長の願いにより、ヴェス嬢を追跡させました」
ジェイスがギデオンを睨むと、彼は肩をすくめた。「屍術師だ。用心しておくに越したことはないだろう」 彼は口一杯に肉を頬張った。
ラヴィニアは体重を片足に移動し、部屋の誰にも聞こえない音で鎧を鳴らした。「彼女はナラー嬢に接触し――」
バーンは椅子から身をのり出し、怪訝な目をした。
「市場区域を歩き回って午後を過ごし、そして、ええと......プレインズウォークしました」
「一緒にか?」 ジェイスが尋ねた。
「そうです」
ギデオンはフォークを置いた。「何処へ?」
「私達にそれを知る術はありません」
「ナラー」 バーンは静かに言った。彼はそれをチャンドラと全く同じ、他の誰も完全に再現できない発音で口にした。「心からの驚きを許して頂きたい。長いこと耳にしていない名前です」
ジェイスは皿を脇に滑らせ、両手を卓の上に置いた。「説明して頂けますか」
「このようなことを告げるのは気が進みません、ですがこれは私の義務と信じております」 バーンは膝の上に手を組んだ。「ピア・ナラーとキラン・ナラーは改革派の早期の活動における著名人でした。悲しい表現になりますが彼らは犯罪者であり、窃盗と領事府が分配する霊気の非合法な再配分に関与しておりました」
「チャンドラの親族なのですか?」 ギデオンが尋ねた。「カラデシュ出身だという事すら私は知りませんでした......」
「両親です、私の推測が大きく外れていなければ。十二年前、彼らは密輸任務に娘を引き入れました――その名は記録されておりません。私は詳細を把握しておりませんが、その娘は危険な紅蓮術の能力を発現した際に拘留を逃れました。ナラー一家は僻地に身を隠そうと試みました。捜査班が一家をブナラットへ追い詰め、ですが逮捕の試みの中で一つの村が焼き払われました。公式記録では三人全員が死んだと報告されています」
「十二年前?」 ギデオンが驚いて言った。「ですが彼女はまだ――!」
「子供だったんでしょう」 ニッサが静かに言った。
バーンは口を開きかけて閉じ、考え込み、袖口を覆う金線を指で叩き、ようやく声を発した。「どうか理解して頂きたいのですが、これは前政権の権限のもとで執行されたものです。当時ですらあの行動は......常軌を逸していると考えられておりました。調査に関わった役人は公的な撤収命令を無視し追跡していました。その者は横領の疑いで正式に告訴されたと信じております」
「横領――!」 ジェイスは吐き捨てるように言った。
「彼女の両親が何をしたのかは、私は知りません」 断固とした口調でギデオンは言った。「何にせよ、私は気にしません。彼らの罪が何であろうとチャンドラには関係ありません」 そして睨み付けた。「彼女は衝動的、それは確かです。間違いありません。ですが彼女の心は月ほども大きいのです」
バーンは指を組み、その上に顎を乗せた。「ギデオン殿、霊気とは我々が呼吸する大気そのものの中に存在します。大地に降り注ぐ雨の中に、木々の葉の中に。工学という手袋をはめてようやく、かろうじてその力に触れられるのです。何万もの役割を持つ部品のそれぞれが安全に役割を果たしてようやくです。この方式を精密に追及することで、我々は魔道士がマナを直接引き出すことによって起こる事故の87.4パーセントを回避しています。この表現をお許し頂きたいのですが、紅蓮術師は特に......二次被害をもたらす傾向にあります」 バーンはゆっくりと息を吸った、赤紫色の瞳が彼の思考の中だけに存在する何かの映像を追った。「過去、紅蓮術師は酷い......悲劇を引き起こしました。常に彼らの意図というわけではありませんが、大体は彼らの性質によるものです」
「つまりあなたは、マッチは非合法だとでも言うのですか?」 ギデオンが問いただした、ニッサがかつて聞いたことのない厳しさで。
バーンは視線を落とした。「これは推測なのですが、皆様の様子を見るにナラー嬢はこの事を話していなかったと?」
「一言も」 ギデオンが答えた。彼は食べかけの食事を見つめながら、片手を握りしめていた。
ジェイスは同情するように彼を見た。「俺達の誰にも明かしてなかった」
「でも、明かすこともできると思っていただろう」 ギデオンは僅かにかぶりを振った。
「それを選ぶのは私達じゃない。チャンドラよ」 ニッサが呟いた。そして椀の縁に指先を滑らせて下ろし、陶器を鳴らすままにした。「私達全員に、触れられたくない傷がある」
あの時チャンドラは目の前に立っていた。頬を紅潮させ、指に炎の花を咲かせて、ただ平穏の時だけを求めていた。あの心の熱狂的な、鳥のような言葉を緩めてくれる何かを。けれど自分は動きを間違った。チャンドラは羽ばたいて飛び去ってしまった。
「お尋ねしても宜しいでしょうか」 バーンが言った。「彼女が向かった先に心当たりはおありですか? カラデシュへ出発する程に性急ではないでしょう」
ニッサは顔を上げた。ジェイスとギデオンは視線を交わした。両者とも彼女を見つめた。
そして一斉に立ち上がった。
ジェイスは衣装部屋へと向かおうとした。「俺がカラデシュへ向かう。俺なら簡単な筈だ――」
片手を剣の柄頭にかけ、ラヴィニアが彼を遮った。「またですか?」 その言葉には疲れと失望があった。
ジェイスはラヴィニアを睨み付けた。「俺が座って書類仕事を続けてると思うのか!」
「お二人でしたらナラーさんを探せます。ですがギルドパクトは務まりません」 彼女はギデオンとニッサへ向けて頷いた。
ギデオンは分厚い手をジェイスの肩に置いた。「彼女の言う通りだ。もっと大きな視点で考えてくれ、ジェイス。私もやれるが、とはいえ」 そこで彼はたじろいだ。「気は進まない。何かを強制されたらチャンドラがどうするか、わかるだろう」
カラデシュ。ギラプール。真鍮と工業の都。ラヴニカに似て決して眠らず、風には金属の匂いとエネルギーの音をはらみ、もみ合いながら行き来する人々の休みない波。自分を唖然と見て囁く他人の海。視線。指先。押しのける人混み。
「私が行く」 その言葉は考えるよりも早く口をついて出た。
ギデオンは彼女へと向き直った。「本気か?」 その両目がニッサの震える指へ向けられた。「ニッサ、一人で行く必要はない」
彼女は拳を握りしめ、それらを落ち着けた。「私が、カラデシュへ行く。バーンさんが案内してくれる。私......」
私は何をするの?
チャンドラを故郷へ帰す? 彼女は故郷にいる。
揉め事から助け出す? 彼女は大人の女性。思う通りにできる筈。
彼女を守る? チャンドラの心はベイロスのそれと同じ。守る人は必要ない。
「......一緒に戦う」
それは正しいように思えた。
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