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Magic Story -未踏世界の物語-
圧政者たち
圧政者たち
Alison Luhrs / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年8月10日
前回の物語:眠りにつく時
アドリアナは高層都市パリアノの護衛隊長として幽霊王ブレイゴに仕える地位にある。だが近頃、彼女は王の行動へと疑問を抱き始めている。死後、王は生前よりも冷酷になった。都市に流れる噂話から、他の者も同じ疑念を抱いていることは明白だった。
古い慣習は絶滅し難い。そして最も絶滅し難い慣習は、死者に属するものだ。高層都市パリアノの護衛隊長アドリアナはそれを何よりも知っていた。彼女は忠実にその地位を務め、偉大なるブレイゴ王に寄り添い、その肩越しに常に目を光らせてきた。王は死後、次第に偏執を増し(不死となったことに対する反応としては興味深い)、協議の時にすら同席するよう隊長に要請した。今アドリアナは大晩餐室に立っていた――暖かみよりも空虚さを感じる、石造りの堂々とした部屋。居心地良くはなかったが、王は様々な理由から会合をそこで設けることを好んでいた。都市の紋章を冠した巨大な旗、壁に飾られたその剣と印章に王は慰めを感じているようだった。かつて触れ、振るったものの中を浮遊しつつ死を過ごすことに、ブレイゴは奇妙なほどに満足しているように思われた。それを実際に手に取れないことを悲しむ様子は決して見せなかった――それどころか、王は何らかを悲しむ様子を見せたことはなかった。他の多くを感じていたが、哀れみはその中にはなかった。王に問うことは隊長の領分ではなく、そのためアドリアナは身体を左へ曲げ、強張った右のふくらはぎを伸ばしながら、王の繰り出す主張を終わるのを待っていた。
ブレイゴ王は晩餐室の卓の先端、清潔な皿ときらめく銀食器の前に座し、左の椅子に浮かぶカストーディの幽霊二体へと小声で辛抱強く囁いていた。死者の声はしばしば年を経るごとに小さくなる。部屋の奥に近いアドリアナの位置では、自身の鎧が鳴る音だけが広間の唯一の雑音として彼女の耳に届いていた。三体の幽霊は教会の事業について議論していた。彼らの前に置かれた華麗ながらも空虚な食器の一揃いは、幾つかの悪しき慣習によるものだった。興味深いことに彼らが会話とともに動かす手は、並べられた空のグラスとゴブレットを巧みに避けていた。
アドリアナは長年に渡って王に仕えてきた。死しても王は生前の筋肉の記憶を保っていることは知っていた。幽霊は何ら特別な存在ではないが、目的をもって幽霊となった者はかつて存在しなかった。王が死してその座を保持した時、アドリアナは恐ろしい実感にかられた。過去の隊長達は数世代の王に仕えてきたが、自分は只一人だけに運命づけられているのだと。パリアノの玉座は崩れ去った。跡継ぎは遠い昔に断たれていた。
その発見を思い出したところで、強張った脚は宥められなかった。
時折、彼女は幽霊達の間に交わされる一語か二語を心に留めた。彼らはパリアノの街路から歯車式機械を排除した件の成功について議論していると思われた。そしてアカデミーの閉鎖によって自分達に反抗する者が消えた、もしくは死んだことに満足しているらしかった。
あの暴動の鎮圧に加わるよう彼女は命令されていた。アカデミーを解体し、発明と革新の追求を都市から排除するために。
アドリアナの心に罪悪感の囁きが走った。彼女が人生を捧げて仕える王は死して冷酷になった。大声で口にしたことは決してなかったが、その思いが心にあることは知っていた。
幽霊達の議事は結論に達した。カストーディは立ち上がり、アドリアナは退出する彼らを案内すべく踏み出した。召使の少女が一人、皿を片付けるべく彼女の後ろから入室してきた(だがその食器はまたも洗われるのだろうか? 膨大な量の石鹸の浪費では? アドリアナは訝しんだ)。ブレイゴ王は隊長へと思慮深く頷き、アドリアナは聖職者達を晩餐室から廊下へと連れ出すことで返答した。二体の幽霊は慎重に進み、彼らの周囲の大気は通常より少なからず冷えた。アドリアナと二体の周囲は息が詰まるようだった。
廊下を三分ほど歩き、二体の幽霊は大扉の前で立ち止まった。「アドリアナ隊長......」 彼らは囁いた。アドリアナは黙ったままでいた。カストーディから直接話しかけられたことは今まで一度もなかった。
彼女に近い側のカストーディが祝福に両手を掲げた。透明な指が肌に触れて冷たさを残した――肩、肩、額。アドリアナは快くその祝福を受け取ったが、唐突に疑問に思った。何故彼らはこのような形式ばった別れの挨拶で去ろうとするのかと。
幽霊達は退出し、アドリアナはこの一時の徒歩で脚の強張りが治ったことを喜びながら振り返った。突然、だが遠くで何かが砕けた音が耳に届き、彼女は素早くその源へと向かった――荷物室だろうか? 食糧庫? 食器洗い場!
先程の召使の少女が両腕に皿と銀食器を山と抱え、ごみ捨て用の縦穴へと放り込んでいた。高価な陶器が一つまた一つと、その先の遠いごみの山で砕け音を上げて旅を終えた。
「あなた!」アドリアナは声を上げた。
その子は驚き、一枚の皿を落とした。
「何をしているのですか? 王の所有物ですよ」
「親方が言ってたんです、女王陛下はこんな皿は好まないって」 少女の両目には恐れがあった。
女王陛下?
「この城に女王などおりません」
「女王陛下については何も喋ってはいけない、って親方が」
アドリアナは剣の柄を握りしめて踵を返し、大晩餐室へと戻るべく速足で階段を昇った。背後で、更に多くの皿が縦穴へと投げられる音が石造りの広間に響いた。カストーディの祝福が触れた場所が次第に、予感じみた痛みへと変化しているようだった。
すれ違う他の召使達へと彼女は目をやった。一人は急ぎ目をそらした。別の一人は使用人区域へと続く小道に隠れた。一人は新品の旗を振っていた――毛足の長いベルベット、棘のある薔薇の刺繍――そしてアドリアナは全力で王へと駆けた。
急ぎながら靴の踵の革が石の床に跳ね、鎧の端が音を立てた。そして大晩餐室に飛び込んだその時、彼女は驚愕とともに滑るように急停止した。
咄嗟に動いたその瞬間、だが記憶の中でそれは重要性を孕む小さな永遠の瞬間だった。
巨大な晩餐室の奥。一風変わった上着をまとう、暗い肌の女性。顔を強く歪め、その両腕でブレイゴ王の両肩をしっかりと掴みながら(どうやって!?)円錐形のダガーを王の肩に深く埋めていた。人生で初めて、アドリアナはまごついた。風変りな上着のその女性は幽霊にしては実体があり、だが奇妙な青い光を揺らめかせる腕に力を込めてダガーを深く埋めようとしていた。王の口は音のない叫びに開かれていた。女性は紫色にきらめくダガーの握りを変えると、部屋向こうのアドリアナと目を合わせた。
高層都市パリアノの護衛隊長は呼吸の仕方をようやく思い出した。
そして自身の役目も。
彼女は身体を傾かせて飛び出した。敵の性質は知らなかったが、王の特性は知っていた。彼女は剣を抜き、暗殺者を切り裂こうとブレイゴ王の顔面めがけて振るった。アドレナリンと恐怖に、その瞬間は長く感じた。剣を振るうと同時にアドリアナは暗殺者に目を留めた。ブレイゴの顔面を傷つける事なく剣が通過し、だがアドリアナが見つめる中、暗殺者の肉体は半透明な紫色へと変化した。侵入者の視線がアドリアナを貫いた。
アート:Chris Rallis |
攻撃を無効化され、アドリアナは素早く剣を落として迫った。同時に暗殺者もブレイゴを解放して床に落とした。アドリアナは反射的に王を受け止めようとして、それが実際に可能だと知って呆然とした――ブレイゴと鎧との霊的な繋がりは王とともに消えつつあり、アドリアナは死にゆく王の霊が今もその内にある鎧を抱きかかえていた。
王の死はこれまでにアドリアナが目撃してきたどのような死とも異なっていた。目をそむけることはできなかった。
暗殺者がナイフを埋めたブレイゴの首筋、その屈曲した傷が素早く腐食し、霊の皮膚が紫色の壊死状態へと悪化し消失していった、まるで喉から身体じゅうへと広がるように。その病毒は王の皮膚に広がりながら大気だけを軌跡に残し、数秒のうちに王の姿は消え去った。
ブレイゴの穏やかに輝く王冠、物質で作られたそれは持ち主を失い、床に落下した。
王の剣はその帯に今も残っていた。
王が横たわっていたその場所には今、微光を放つ装飾品の山が持ち主を失い、護衛隊長アドリアナの腕の中でぎらついていた。
わずかな達成感らしきものとともに、暗殺者はアドリアナを見下ろした。
《幽霊暗殺者、ケイヤ》 アート:Chris Rallis |
アドリアナはブレイゴの剣を掴み、鞘から抜いた。暗殺者の次の動きは定かでなかった。その暗殺者は何か寝起きのような物憂げな様相で立っていた――日中の決闘場ではなく、夜の酒場に向かう服装で。憎むべき相手だった。ブレイゴのきらめく剣を両手で固く握りしめ、アドリアナは突撃した。
「賊め!」 彼女は吼えた。
暗殺者の肝臓があると思しき場所をめがけ、アドリアナはその剣を突き入れた。一瞬にして暗殺者の腹部が奇妙で半透明の紫色に変化し、その剣はたやすく通過した。致命傷となるべきだった傷は些細な不自由にしかならなかった――暗殺者は衝撃に凍り付くアドリアナへ向けて、にやりと笑った。
アドリアナは集中し、素早く上方へと切り裂いた、暗殺者は鎧を身に着けていなかったが、その上半身から肩が不意に紫色と化し、剣は通過した。刃の動きが頂点まで達した時、アドリアナは鋭い、驚くべき、非常に肉体的な肘打ちを暗殺者から喉に受けた。それは予期していなかった。護衛隊長はふらつき、あえて引き下がって敵を見積もった。
暗殺者は微笑んだ。「私は標的一人分の金しか受け取っていないの。あなたを殺す気はない」
アドリアナの怒りが荒い息を熱くした。「堂々と戦いなさい、卑怯者!」
暗殺者の唇が楽しむような笑みに開かれ、ふざけた目配せを返した。
護衛隊長はその異邦人の目へと直接唾を吐くことで返答した。
瞬時に暗殺者の顔は意図的な透明にゆらめき、唾の塊はあっさりと通過して背後の壁に当たった。
「避けなくてもよかったのだけど」 暗殺者は言った。笑みを広げ、踏み出し、床に横たわるブレイゴの空の鎧を「通過した」。散らかった金属の塊の中を通りながら、彼女の両足と脛はあの奇妙な紫色に揺らめいた。
「この空の鎧を守るためにずっと酷い努力をしてきたのでしょう」 暗殺者は悪賢い物憂げさとともに言った。
「その御方は、我らが王――」
「私が刺す前から、この男は空の鎧だった。それより前は圧政者だった」 暗殺者は続けた。「圧政者が死ねば、自由を手にする機会が生まれる」
アドリアナは罪悪感の奇妙な波に打たれた。返すべき言葉が見つからなかった。
護衛隊長からは楽しそうな目を離さないまま、その暗殺者は軽く会釈をした。「あなたの仕事をなさって下さいな」
その異邦人は上着をわずかに正すと、紫色の波を素早く立たせて床を落ちていった。彼女が消えていった床の地点をアドリアナは黙って見つめていることしかできなかった。馬小屋はこの真下。あの女に追い付く方法はない。
大晩餐室は沈黙していた。その静寂の中、アドリアナは溜息をついた。ブレイゴの鎧と冠は王が倒れた場所に積み上がっていた。霊の残滓は何もなかった、改めて物質となった鎧と王冠に居残る光の輝き以外には。幽霊が死ぬ様を見たのは初めてだった――あるいは霊が第二の死を迎えて消えた時、その持ち物が物質化するというのは普通のことなのだろうか。
わけがわからなかった。ありえなかった。
この地位を受領した私が愚かだった、アドリアナはそう思った。私の任務は王をお守りすること、なのに殺されることのない者を守れなかった。そもそも、私はどんな目的で仕えていたのだろう?
王城は王の死を知ってざわめき始めた。棘の薔薇を抱く旗が広げられた。召使達が後ろ暗い好奇心とともにやって来ては、床に横たわる空の鎧を調べていた。その全ての間、アドリアナは大晩餐室の奥に黙って立っていた。
アドリアナの指がブレイゴの剣の柄をかすめた。自分が持っているのが一番安全、彼女はそう思った。
アート:Chris Rallis |
明くる日、カストーディはマルチェッサ一世女王を戴冠させた。
戴冠式は完全無欠に装飾された玉座の間で執り行われた。埃を払われた梁からは黒薔薇の紋章を抱く旗が下げられ、先週作られたばかりの蝋燭の光を受けて棘の板金鎧が銀色にぎらついていた。珍しい花と仕立てたばかりの衣服の匂いで玉座の間の空気は新鮮に感じられた。
城で働く者達はよく見知ったような視線で新女王を見つめていた。カストーディは戴冠式の台本を滞りなく進めた。パリアノ上流階級の誰もが備えていたようだった。皆備えていた。皆知っていたのだ。
この裏切り者ども全員を今この場で殺してやりたい、アドリアナは痛烈にそう思った。玉座の間の至る所に新女王の印章が抱かれていた。全てが間違いだった。
その日の朝早くにアドリアナは部下と話し、彼ら全員が自分と同じく深い暗闇の中にいると知って安堵した。この壮大な秘密は隊長同様に彼らへも隠されていたのだった。そして少なくとも自分の部下も同じ混乱と怒りに燃え上がったと聞き、護衛隊長は安心した。
今、彼らはアドリアナの背後に並び、またそれぞれの扉を守っていた。護衛は王と教会を守る義務にある、だが誰一人として快く職務を全うしてはいなかった。ブレイゴの剣は――彼女はそれを視界の外に置こうとは思わなかった――戴冠式が続く間も彼女の掌にしっかりと残っていた。
憎むべき交響曲の眩惑的な指揮者、黒薔薇のマルチェッサはその中央に立っていた。彼女のガウンは慎ましく装身具は簡素で、ぼんやりと光を発しながら頭上に座す王冠を映えさせるようなものだった。謙虚な盛装でカストーディを喜ばせるというわざとらしい試みに苦い顔をしないよう、アドリアナは全力を尽くした。
幽霊達が戴冠の儀を終え、薄く輝くパリアノの王冠がマルチェッサの頭上に収まると、王家の私室へ向かう彼女をアドリアナは素早く追った。女王の背後について階段を昇り、そむけられた視線の海を過ぎ、そして二人の後を侍女の群れが追いかけた。歩きながら、とてつもない大金がこの企てに費やされたに違いないとアドリアナは実感し始めた。カストーディへの賄賂。労働者の買収。暗殺者への代金。そして薔薇を抱く織物、城の壁や兵や馬を飾る文物の山また山。
アート:Titus Lunter |
そして私は何も知らなかった。あんなに長く、不注意な王の肩越しに見つめていながら、何も知らなかった。
だがアドリアナはふと考えた。
もし知っていたとして、私は止めたのだろうか? ブレイゴは冷酷な王だった。二度目の死は当然の報いだ。
列を成して階段を昇りながら、アドリアナはマルチェッサの背を見つめた。かつて起こったことはこれからも起こりうる。王が戴冠し、殺害され、取って代わられる。女王が戴冠し、殺害され、取って代わられる。そしてこの忌まわしい循環が永遠に続くなら、一体何百人の同国人がその過程で死ぬのだろう?
それは終わることなく続く機関。
私達全員が、この憎むべき機械の燃料となっている。
その実感から怒りがアドリアナの心臓を満たし、あの暗殺者の言葉が心にこだました。『圧政者が死ねば、自由を手にする機会が生まれる』 一人の圧政者が死に、パリアノは自由への機会ではなく別の圧政者を得た。彼らを殺し尽くすのでは足りない。機会を確実なものにするにはどうすればいい?
マルチェッサは私室の前で立ち止まり、侍女達に入室を許した。アドリアナも続き、侍女達が新女王の戴冠衣装を市民への就任演説のための衣装へと着替えさせる間、扉の傍で辛抱強く待った。
隠されていたものを一層また一層と明かしながら、侍女達が女王を分解し始めた。ガウン。肩衣。張り輪。長衣。ペティコート。胴着。長靴下とシャツを下ろすと侍女達は再び女王を支え、次は更に豪奢で見事に仕立てられた衣装を着せ始めた。アドリアナは無数の内ポケットを隠す縫い目を、珍しい毒薬の小袋を隠す秘密の裏地を見た。胴着。ペティコート。長衣。張り輪。肩衣。ガウン。侍女達はその終わりのない絢爛を、胸部の飾り板で締めた。
この着替えは退屈なもので、女王が護衛隊長と目を合わせた時、そこにはただ単純な優越感だけがあった。果てのない層に果てのない秘密が隠されている。私がどれほど多くを持っているかを見ましたの? どれほど多くを隠しているか、想像できて?
最後の紐が締められると、マルチェッサは侍女達を追い払った。アドリアナは背を伸ばし断固として立っていた。高層都市パリアノの、ベルベットに浸された女王の前で。
「私に言いたい事がおありのようですね」 その毒使いは媚びるような声で言った。「まもなく市民への戴冠の演説が始まりますので、手短にお願い致します」
「これは正当な相続ではありません」
「これは正当な相続ではありません、『女王陛下』」
アドリアナは憤慨を抑えた。「ブレイゴ王は貴女を後継者として指名したとはカストーディの言です。御存知の通り私は学者ではありません、そのため恐らく貴女は私に説明して頂けるかと思います、何故幽霊がその意志を必要としたのかを」
新女王は微笑んだ。回答はすぐさま発せられた。「不死者は資産を守る必要がない、それは勿論のこと。ですが正しく記された法的文書を受領することをカストーディは心から望んでおられました」
一歩進み出ると、護衛隊長の鎧が鳴った。「ブレイゴ王にはお子様方がおられました、王女殿下は――」
「年老いて意志も薄弱でした。その嫡男嫡女も粗野なものでした。少し前に私は彼らと交渉しまして、その際に発見したのですよ、私の名が継承権の第一位にあることを」
彼女の名? マルチェッサの家系の地位は低く、王家の血統からも遠く離れている。アドリアナは吐き気を覚えた。女王は彼女近くの化粧椅子へとゆったりとした足取りで向かい、優雅に腰掛けて濃赤の口紅を塗り始めた。アドリアナはどうにか立ち続けた。
次の疑問は躊躇なく口をついて出た。「他の後継者を一体何人殺したのですか」
「殺害したのはブレイゴだけです」 マルチェッサは瞳の動きでそれを認めた。「ええ、ケイヤが殺害したのですが、彼女には相応しい金額を支払いました。前王の御家族全員にも哀悼として惜しみない金額を。カストーディも我が統治が一年続く毎に健全な税収を受け取ることでしょう」
女王は立ち上がり、毒を塗った唇で微笑んだ。「祈りましょう、私を没落した家の没落した娘と呼ぶ者が、高層都市からの没落を楽しめますように」
アドリアナは長年の任務の中、多くの敵を見下ろしてきた。同様に、王家に害を成す者をも対処してきた。この蛇はそれらと何ら変わらない。「我らが都市は容易く貴女に従いはしないでしょう」
「既に従ってくれています」 マルチェッサは平然と言い放った。彼女は化粧椅子から離れ、窓の下にあった頑丈な箱を開いた。アドリアナがその場から箱の中を覗き見ると、豪奢に光り輝く鎧の一式が入っていた。黒薔薇が飾られた胸鎧を女王が持ち上げると、護衛隊長もそれを観察することができた。明らかにアドリアナのために作られたものだった。
「私はそれを着ることはないとはお判りかと思いますが」
「少なくとも、私は着て頂きたいのですよ」
アドリアナは不信にかぶりを振った。「では市民については?」
「彼らは私を崇めるでしょう」 マルチェッサは言って、箱はそのままに化粧椅子へと戻った。手の指は十本でありながら、彼女は三十もの指輪を必要としているようだった。
アドリアナの心臓が怒りに高鳴った。「では彼らがそうしなかったなら?」
マルチェッサは明らかにその可能性を考慮していなかった。続く言葉に、彼女はアドリアナと目を合わせた。
「もし演説のために進み出た時、何千もの市民が貴女を圧政者と呼んだなら?」
「その時は圧政を敷きましょうか」
アドリアナは女王の凝視から断固として目を離さなかった。「私を殺せはしません。もしそうしたなら、私の部下が直ちに報復するでしょう」
マルチェッサは肩をすくめ、指輪を選びに戻った。「遺憾ですが貴女の推論の通りです。貴女に生き続けることを許可するのは、私の最高の利益のためです」女王はそう言って、視線を上げた。「貴女も同調することが最高の利益となりますよ」
アドリアナは女王の顔面へと唾を吐いた。
この時は、相手に当たった。
黒薔薇は人生で初めて、それを避けられなかった。彼女は嫌悪感に呆然と座ったまま、震える手で目から唾を拭った。その間にアドリアナは新たな鎧を箱から掴んで立ち去った。
自身の感情を知らしめるべく、アドリアナは時間を無駄にしなかった。
彼女はすぐさま護衛隊の詰め所へ赴き、戴冠の演説が終わった直後に自分を見つけるように告げた。次に馬小屋へと急ぎ、忌まわしい薔薇模様の胸鎧を縄に結び付け、それを鞍の後ろに引っかけて背後の土に引きずるように繋げた。
アドリアナは乗騎に座し、駆け出した。
女王の演説へと向かう群集が彼女の前で分かれた。アドリアナは思った、あなた達の護衛隊長をご覧なさい、そして私があなた達の新女王をどう思っているのかを。
遠くからマルチェッサの演説が聞こえた。それは都市の全てに届くよう増幅されていた。「前隊長は退職する。公正なる都市全体からは感謝を、王室からは相応の恩給を得て、今後の余生の続く限り生活が保障される」
アドリアナは顔をしかめ、馬を急がせた。顔見知りの市民数百人の前を過ぎて盗人地区へ向かいながら、このまま自分自身の演説をしたい気持ちに駆られた。彼女は速度を緩め、立ち止まり、混乱し警戒する市民達の顔を見た。馬上から、アドリアナは力を感じた。いつも他者へと振るわせていた力を。周囲の様子を見ながら待ち続けるのはもう沢山だった。
確固たる信念を込めて、彼女は盗人地区の群集へと口を開いた。「マルチェッサはあなたを王冠に従わせようとするだろう。偽女王が頭に戴く本物の王冠に従えと。そうして、あなたも都市を裏切ることになる!」
アドリアナはブレイゴの剣を高く掲げ、盾に刻まれた都市の紋章を打った。「自分の旗ではないのだから、それに敬礼するのは止めよう。支配が合法ではないのだから、法も合法ではない。本当は女王ではないのだから、王の家臣といっても間諜や暗殺者となんら変わらない。それにふさわしい扱いをしてやろう!」
群集は同意にざわつき、アドリアナの心は飛翔した。彼らもまた、あの機関に失望した者達なのだ。
続く数週間で、ブレイゴが敷いた平和はマルチェッサの深刻な社会不安に取って代わられた。ブレイゴの護衛として仕えていた者達は王冠への誓いを破棄し、闇の覆いに隠れて街路を巡回して市民を守った日没とともに印章が変更され、その都市の象徴は夜の中で信頼に値する存在の証となった。
「都市につくのか?」 静かなそこかしこでその落書きが通行人へと尋ねていた。高層都市の市民は噂を耳にし不安を感じていた。彼らは毒使いの女王が発する命令へと耳を澄まし、彼女の支持者がふりまく堕落について囁いた。誰もがその全てを聞き、アドリアナはそれを最も大きく聞いた。だが盗人地区での宣言の後、彼女は黙っていた。彼女の声は最終的に人々を支配するためのものではなかった。私はその声を守る手、悩みへと傾ける耳。そう心得ていた。
やがて君主殺しの夜から月が三周すると、彼女は闇の中、力を貸してくれる者の故郷へと密かに旅立った。
何日もの間アドリアナは眠っていなかった。耳を澄ましていた。護衛へと、市民へと、人々が何を必要としているか、そして何故彼らを愛すべき主から敬意を持って扱われないのか。その声全てが一つの事実を告げていた。パリアノは城の中で暗殺者から身を隠す一人の君主を必要としてはいない。必要なのは、フィオーラの大局を理解する指導者。
目的地に到着し、アドリアナは堅牢な異国の木材で作られた華麗な扉を静かに叩いた。扉が軋み、パリアノの誰もが即座に認識する顔が現れた。
アート:Jesper Ejsing |
エルフの探検者セルヴァラは扉の向こうに立ち、予期せぬ客を眺めた。
「アドリアナさん。何か知らせですか?」
「提案があります」
セルヴァラは前隊長を査定するために一秒かけた。彼女は頷き、無言で入るように促した。
セルヴァラの家は風変りで簡素だった。長く不在にする旅人の家だった。
アドリアナは外套を扉の横に置き、木製の暖房の前に置かれた卓へエルフと共に着いた。セルヴァラは、彼女の民の慣習として、前護衛隊長が用件を切り出すのを黙って待った。
他に選択肢はないとアドリアナは知っていた。もしこの人が頷いてくれないなら、我らが都市の未来は永遠に圧政者の手に落ちる。
アドリアナはそのエルフが卓に置いた小さな茶の杯を受け取った。彼女はセルヴァラの目を見つめ、かつて発した中でも最も重要な提案のための勇気を振り絞った。「パリアノの君主制は安定していません。あれは終わることのない暴力と殺人の機構です」 アドリアナは言った。エルフの家の内密さに、その声は安定し確信があった。
セルヴァラは頷いた。重々しく断言する小さな動き。
「もし私達市民が自由を得て生きようと願うなら、その機構は止めねばなりません。貴女は人々によく尊敬されていて、私達の都市を一つにできる存在です」 アドリアナは続けた。「私が考えうる、最良の議員候補です」
半ば驚きとともに、セルヴァラの目が見開かれた。
アドリアナは椅子から身を乗り出した。都市全体の信念とともに心臓は燃え上がっていた。彼女は滅多にない笑みを唇に許し、これまでの人生でも最も重要な質問を尋ねた。
「パリアノ共和国の建国に力を貸して頂けますか?」
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