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Magic Story -未踏世界の物語-
約束されし終末
約束されし終末
Ken Troop / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2016年7月27日
前回の物語:スレイベンの戦い
イニストラードは滅亡に直面している。エムラクールが現れ、それは怪物と変貌をまき散らして他のあらゆる生命を脅かしている。ゲートウォッチはスレイベンに集い、更にリリアナとゾンビの群れが新たに加わって、彼らに時間と、計画を練る余裕を稼いでくれた。
だがエムラクールを打倒できる計画などあるのだろうか?
リリアナ
世に言うゲートウォッチが顔を歪め、苦悶するのを眺めるのは楽しかった。ギデオンの自制できない憤慨、ニッサの不快感、チャンドラの苛立ち、ジェイスの苦悩とためらい。ジェイスはお気に入りの場所にいた――自分で作り上げた制限の只中に捕われて、何故人生の決定は常にこんなにも難しいのだろうと思っている。『君は絶対に変わろうとしないよな?』 リリアナも、それが楽しいか嫌なのかはわからなかった。両方かもしれなかった。
《闇の救済》 アート:Cynthia Sheppard |
目を大きく見開き、息を切らして一人の空民がその空間に飛びこんできた。彼女はプレインズウォーカー達をエムラクールの下僕から守るゾンビの大きな輪には目もくれず、だがエムラクールの壮大な光景を見上げた。そうせずにはいられなかった。彼女はジェイスの隣に着地して早口で何かを伝えたが、その声は小さくリリアナには聞き取れなかった。そして彼女はそこで会話を止めた。以前にジェイスとテレパスで会話をしていなかったら、リリアナは狼狽していたかもしれなかった。彼女こそ、ジェイスが言及していたムーンフォークに違いない。ジェイスとタミヨウは沈黙の会話を続け、心を触れさせながら互いに近づいていった。リリアナは眉をひそめた。役立たずの精神魔道士がまた一人。それが必要だなんて。
この事態をどう終わらせるのかを把握するため、リリアナはジェイスと二人だけの時間が幾らか欲しかった。彼女のゾンビは一時の休息をもたらしたが、必要なのはここから脱出することだった。スレイベンから、イニストラードから、エムラクールから。
その名を思うと同時に、リリアナの両目は空へと引き寄せられた。スレイベンの外縁高くにそびえる姿へと。何故それはただそこにいるのだろう? 大気は重く、古臭く感じた。濃く漂っているのは......死者の匂い、ではなかった。リリアナにとって死者とその匂いは心地良いものだった。だがこの匂いが含む腐敗に、リリアナは良くないものを感じた。
不意に大気が動き、春の日の嵐が来る直前の匂いと圧迫感、そしてその動きの中でエムラクールが......開いた。その雲が芽吹き、その細長い触手が伸びて増えた。数百本から数千本へ、数万本へ、そしてもっと。不可視の力がエムラクールから球状に弾け、細波とともにプレインズウォーカー達全員を打った。
胃袋に吐き気が渦を巻き、眩暈が彼女の思考を歪ませた。これまでの人生でも僅か数度、この絶望と嫌気の病的な組み合わせに覚えがあった。兄のジョスの目が命なく開かれ、その漆黒の宝球が破滅を予示した時。鎖のヴェールの力が初めて彼女の血管を流れ、まるで乾いた抜け殻のように皮膚を無理やり裂いて血を、彼女の血をゆっくりと流させた時。
そのどれも、エムラクールの存在に感じた「間違い」とは比較にならなかった。リリアナ・ヴェスは死を逃れる手段を探すことに人生を捧げてきた。そしてその長い存在の中、初めて彼女は思った。自分は間違った目標を目指していたのではと。エムラクールの開花の影の中で、死というものはただ、人生の中にありふれた一つの嘘のようだった。あらゆるものに待つ真の恐怖を退けるための、貧しくも偽りの希望のようだった。
エムラクール。エムラ......クー......ル。エムラ......
彼女は力を込めてかぶりを振り、心を澄ませようとした。こんなにも長く生きてきて、多くに打ち勝ってきたのは、今ここで屈するためではない。『この次元から離れろ。この......留まるなど正気の沙汰ではない』 脳内に直接聞こえたのは彼女の思考ではなく、鴉の男の声だった。それは......怯えているようだった。その恐怖に、リリアナは少しの喜びを覚えた。『あなたも恐怖を感じるなんてね』 彼女のゾンビが一斉にうめいた。「破壊の器。邪悪の根。逃げよ」 リリアナは驚いた。かつて鎖のヴェールが、器や根や無意味な言葉を告げていた。けれど、逃げろなどとは。エムラクールが何であろうと、鎖のヴェールはその一部すらも必要ないようだった。
大気の圧迫感は強まり、涙目になるほどの頭痛が彼女を襲った。他のプレインズウォーカー達は倒れていたが、ジェイスだけは即座に何らかの呪文を唱えていたらしかった。苦痛が何倍にもなり、彼女は頭を垂れた。外にはエムラクール。内には鎖のヴェール。忌まわしい鴉の男もどこかに。屈しはしない。私のゾンビ、私のヴェール、私の心。私の!
彼女はエムラクールを見つめた。恐怖が退き、燃え立つ怒りがそれに取って代わった。どういうつもりで......
そしてエムラクールからまたもエネルギーが弾けた。凄まじい雷雨の嵐、これに比べれば先程は春の夕立に過ぎなかった。リリアナは怒りに絶叫しながらも膝をつかされた。彼女のゾンビ達は一つの言葉をうめいた。
「エム......ラ......クーーーール」
ジェイス
雨に濡れたガラスの向こうに、紫色の影がかかる塔。筋を描く炎の上空は重苦しい雲。エムラクールの笑い声は冷たい金属の輪を思い......
『まずいな。これに屈する訳にはいかない。何とかしないと』 ――ひとつの声がとりとめのない混沌を切り裂いた。初めて聞く、馴染みある声だった。ジェイスは落ち着き、ゆっくりと息をした。思考の筋道が通った。彼は数秒前に心を支配しようとした喚き声を思い出そうとしたが、それは既に消え去っていた、曙光とともに融けるはかない朝露のように。彼は長い、壮大な階段の最上部にいた。青色で華麗に縁どられた、白大理石の階段。明確な光源はなく、だがその階段は明るく照らされており、彼の視界遥か先まで続いていた。
頭上には石の塔が高くそびえていた。床付近では、それはラヴニカにある彼の私室に似ていた。大きな石造りの机。その上には書物の山、地図、そして幾つかの......音を立ててうなる機械仕掛け。一面に書物が詰められた本棚。ジェイスは切望とともにそれらを見つめた。それはただラヴニカの自宅と似ているだけでなく......そのものだった。ただ、ラヴニカではその中央に豪奢な螺旋階段はなかった。
《ジェイスの聖域》 アート:Adam Paquette |
そしてラヴニカでは、私室を空から破壊する怪物的な力は間違いなく、なかった。
数百フィート上空で、ジェイスはその塔の巨大な石材が崩れるのを、もしくは掴まれて放り投げられるのを見た。塔の屋根は既にすっかり失われ、不吉な紫色の雲で満ちた空を覗かせていた。その破壊を見つめているうちに、その紫色の雲は雲ではないとジェイスは気が付いた。それは物体だった。一体の生物だった。巨大な紫色の雲と化したその生物が、何百もの悶える触手を伸ばしていた。その触手は塔へ伸ばされ、むち打たれ、閃く稲妻と耳をつんざく雷鳴が続いた。その生物には一つの名が......
エムラクール。彼が口にしたその名は奇妙に響いた。それは知るべきではない言葉、知ることのできない言葉だった。もしくは、言葉の裏に隠れた言葉......ジェイスは立ち止まり、思考の流れが無力に敗北したことを悔しく思った。集中しろ。エムラクール。一つの......存在。エルドラージ。あのエルドラージ。その存在の性質を把握しようと、ジェイスの心は奮闘した。頭痛がした。外にいるエルドラージの巨人を深く考えるほどに、鈍く脈動する痛みが増していった。なら考えるな。俺はどこにいる? ここは一体何だ?
更なる記憶が戻ってきた。自分は塔の中などにはいなかった。ここはスレイベンで、数えきれないエムラクールの下僕に包囲されていた。皆そこにいた。ギデオン。タミヨウ。ニッサ。チャンドラ。そしてリリアナ。驚いたことに彼女はゾンビの群れを率いて姿を現し、狂信者やエムラクールによって狂気へと駆られた生物から自分達を救ってくれた。リリアナが戻ってきた。彼女は......
外で巨大な雷鳴が一つ轟き、足元の地面がわずかに震えた。同時にジェイスの頭も痛みだした。稲妻がひらめき、エムラクールの触手がまたも巨大な石の構造をはがす様を照らし出した。その塔は高く巨大だったが、エムラクールはその石を一つまた一つと崩していった。
階段の下方深くで柔らかな白い光が脈動を始めた。その光は、誘っていた。通常ならばジェイスは怪しむことを十分に心得ていた。知らない場所で誘う柔らかな白い光は更に知らない場所へと導くものだ。だが大抵の「通常」時は、絶大な力を持つエルドラージの巨人から攻撃されてはいない。その白い輝きはいよいよもって興味深い選択肢に思えた。
外で眩しい爆発があり、長く深い紫色に続いて耳をつんざく雷鳴があった。稲妻が打ちつけ、塔全体が反響した。激しく脈打つような頭痛に、ジェイスは床へと崩れた。俺に何が起こっている? そしてまた別の声があった。自分の声、だが外のどこかから、強制力によって発せられていた。動け。すぐに動くんだ。下へ降りろ。
ジェイスは塔の残骸からエムラクールの貪欲な紫色の大口を、石の防壁を次々と包み込む際限のない触手を見上げた。彼は床から立ち上がるとよろめきながら階段へと向かった。彼はその声が、自分の声が、正しいと信じた。今は去る時だ。彼は塔の深部へと降りていった。
リリアナ
リリアナの血は燃え盛り、心は千々に裂かれていた。一つの力が彼女を保っていた――怒りが。私のゾンビ。私の! お前のものじゃないのよ! 意識することなく彼女は鎖のヴェールの魔力を深くから引き出し、エムラクールの力を押しやった。彼女はそのエルドラージの荒廃の接触を感じた、今や死者にすら影響するほどの。だがその悪意に満ちた接触ですら、鎖のヴェールに後押しされたリリアナの屍術の腕前には及ばなかった。彼女はゾンビ達が自分の下へと戻ってくるのを感じた。
血管を流れる魔力は刺激的だった。これまでヴェールを使った時は苦悶と不和を感じていた、だが何故かこの時は、彼女の怒りが鎖のヴェールの最悪の危害から身を守っていた。もしかしたらこれこそ、鎖のヴェールを解く答えなのかもね。私はこれまで、こんなにもヴェールの力を求めたことはなかった。
《墓場からの復活》 アート:Kieran Yanner |
多くの声が今もゾンビから、そしてヴェールから彼女の心に直接囁かれていた。「破壊の器。邪悪の根」 聞こえている声はそれだけではなかった。鴉の男がその恥さらしの口調で加えていた。「ここを離れねばならん。これこそが狂気だ。君は死を克服したいのだろう、ここで君が対峙している存在は時よりも古きもの、君よりも強大なものだ、例え君が百もの鎖のヴェールを振るおうとも! 離れろ!」 鴉の男は命令のようにその声を発していた。ここまで感情のこもった、隙だらけの声を彼から聞くのは初めてだった。
リリアナは他のプレインズウォーカー達に視線をやった。チャンドラ、タミヨウ、そしてギデオンは地面に力なく四肢を投げ出して意識を失っていた。リリアナは手短にその力を伸ばしたが、彼らの身体は屍術の接触には反応しなかった。まだ生きているのだ。ニッサはその場所に根を張るように動けず、悲鳴を上げていたが、その口から発せられる言葉は意味を成していなかった。緑色と紫色のエネルギーが彼女を取り囲むように淀み、砕け、満ち引きしていた。立っているのはジェイスただ一人で、意識はあるようだったが彼女を見てはいなかった。リリアナはジェイスを取り囲む青色のゆらめきを見た。その陰影はもう五人のプレインズウォーカーへと伸びていた、彼女を除く全員へと。それがあなたたちを生かしているの?
その陰影は彼女へ伸びてはいなかった。だがジェイスの助けは必要なかった。リリアナは少なからぬ力を知ってきた、二百年に及ぶ人生で得た、知恵と無慈悲を備えた力を。だがそのどれもエムラクールの精神的猛攻撃から自分を守ってはくれないとわかっていた。鎖のヴェールの力がなければ、自分は跡形もなく消し去られていたかもしれなかった。
今振るう力、喜びとともに振るう力。その興奮に彼女は声をあげて笑った。それは未だ彼女が至っていない存在に最も近かった――かつての全能の自身に。私には何でもできる。『器。破壊の器。世界の終焉から離れよ。世界創造主から。器よ!』 ヴェールの声は今も彼女の脳内に囁いていた。『ヴェールの声を聞け、馬鹿者!』 鴉の男の声は恐怖に詰まっていた。『邪悪の根。破壊の器。器!』 そして彼女のゾンビ。
リリアナは笑った。その笑い声には怒りと力が込められていた。「私は、器なんかじゃ、ないわ!」
リリアナはヴェールと鴉の男の声を両方とも断ち切り、不意にそれらを黙らせた。それらが毒づくと、彼女はそれらの怒りと無力さを感じた。『大事なのは私の意思。私の望み。何も私の前には立たせない』 彼女はヴェールへと呼びかけ、これまではあえて試みようとしなかった程の力に繋がった。
私はおまえのものじゃない。おまえが私のものなのよ。
彼女はヴェールの魔力を集め、それを自身の多大な魔力と経験で手綱をとった。それほどの力の苦痛の中では、もはやエムラクールの精神攻撃は感じなかった。
彼女はその巨大なエルドラージへとあらゆる注意を向けた。まるで彼女の増してゆく力を認識したかのように、その巨人は彼女へと向かってゆっくりと動いていた。誰もがあなたを怖がっているようね、エムラクール。彼女は再び笑い声を上げた、力に浸りながら高らかに。私があなたを倒せるなんて誰も思っていない。見せつけてやりましょう。
ジェイス
ジェイスは階段を下りながら時折見上げたが、背後数フィートの向こうは影の中にぼやけていた。この階段は下りだけなんだろうな。この不安にさせる奇妙な塔の深淵を目指して見知らぬ通路を下りながら、何かに導かれているのだろうかと彼は考えていた。頭上からは今も攻撃と雷鳴が聞こえていたが、彼は平静だった。ここを降りるのは間違いなく、上るよりも安全だ。
すぐ隣の石壁がゆらめき始めた。見つめているとその石はガラスへと、もしくは少なくとも何らかの透明な素材へと変化した。石段から天井まで、隣の壁が透明な窓ガラスと化した。その窓の向こうには一つの光景があった。まるで子供が学校で製作する立体模型のような、だがそれは動いていた。
その光景の中央にいるのはギデオンだった。彼は遥か頭上にそびえ立つ何らかの神的な存在と対峙していた。文字通り神のような――その人影は星屑の夜空から成っていた。二本の巨大な黒い角が、人間のものではない青い顔を縁どっていた。ありえない程に巨大な鞭を持ち、その柄には人間の頭蓋骨がついていた。ギデオンは普段通りのギデオンのようだった。引き締まった顎、黄金色のスーラ、そして輝く無傷の鎧。だがその表情はジェイスが知るギデオンのそれとは全く異なっていた。そのギデオンは悩んでいるように見えた。怖れていると言ってもよかった。その顔には怒りが......そして恐怖があった。ジェイスとしては、興味深かった。
《死者の神、エレボス》 アート:Peter Mohrbacher |
ギデオンの周囲には他のゲートウォッチが立っていた。チャンドラは両手と髪を燃え上がらせていた。ニッサ、ジェイスすらもいた。俺の背はもっと高いぞ? 神のような人影は鞭を手にしたまま両腕を広げ、地から沸き上がるような深く響く声を発した。「キテオン・イオラよ、其方のそれは、最上の望みとは? 其方が真に望むものとは?」
「おやめ下さい!」 ギデオンは叫んだ、彼の顔は反抗と苦痛に歪んだ。「エレボス、差し出して頂くものなど何もありません、何も! 貴方からの贈り物は、全てが毒ではないですか」
その存在、エレボスは、鞭を掲げた。「定命よ、これは申し出ではない。真を告げよ、其方が真に望むものを。さもなくば其方の友を殺そう、一人ずつ」
ギデオンは肩を落とし、スーラは鞘へと収められた。彼はエレボスへと顔を上げ、その表情には苦痛と絶望が入り混じっていた。「私が何よりも望むのは......」 ギデオンは言葉を切り、深く息を吸った。「皆を守ること、皆を救うこと......」
「嘘であろう」 エレボスの鞭が放たれ、それはギデオンの隣のジェイスを打った。僅かに触れただけで彼の身体は完全に消し去られた。俺は自分が死ぬ所なんて見たくない。ギデオンは叫びを上げて突進し、スーラが閃いた。だがエレボスは不動のまま立っていた。彼が手を掲げると、ギデオンは後方に吹き飛ばされた。
「定命よ、我を倒すことなど叶わぬ。過去にも、未来も。真を告げよ、さすれば其方の友は生きるであろう」
外で巨大な雷鳴が轟いた。エムラクール、あれはエムラクール。その騒音の中、ギデオンの返答は聞こえなかった。だがギデオンがどう答えたのだとしても、エレボスは満足しなかった。今一度鞭が放たれ、今回はニッサがその接触に消し去られた。ニッサが倒されてギデオンはひるんだが、この時は攻撃しなかった。チャンドラはそこに無感情に立ったまま、その燃えさかる両手は何もしていなかった。この光景は間違いなく現実じゃない。ギデオンの頭の中なのか?
ギデオンの声は怒りにかすれていた。「私はあなたを倒したい。引き裂いて、二度と......」
「それはならぬ。まだ嘘を続けるか」 エレボスの声は、対照的に、墓所のように静かだった。またも鞭が放たれ、チャンドラが消えた。「定命よ、真実を知るまでに全員を失うか? その強情が如何様な終末をもたらす? 最も多くの苦痛を被ることが其方の定めか」 主の声とともに、その鞭が踊った。「何を願う?」
ギデオンは空へと顔を上げ、叫んだ。「私は......」 だがそれを言い終えるよりも早く、窓が暗転した。
ジェイスは沈黙のまま立ち、目撃したものの全てに呆然としていた。エレボスとは? ギデオンはどんな苦痛を? 友がこのように苦しんでいたとは、ジェイスは考えたこともなかった。この場所で何が起こっているのかはわからないが、ギデオンの事も同じくらい俺は知らないってことか。これは夢なのか? 俺はギデオンの脳内にいるのか? 上のエムラクールは間違いなく現実に思えるのに。
影がジェイスを圧迫するように近づいた。動き続けないと。答えはきっともっと下にある。数歩進んだだけで、また別の壁が透明になった。この時、場面の中心にいたのはタミヨウだった。
《実地研究者、タミヨウ》 アート:Tianhua X |
彼女は小さな作業台に背を曲げて座し、埃まみれの机に広げられた巻物を読みこんでいた。その光景の明かりは一本の蝋燭だけで、だがその大きさには不自然な程に遠くまでを照らしていた。タミヨウの背後には書物で満ちた棚があり、その脇にも更に書物の山があった。ジェイスは懐かしさにかられた。本だけに囲まれて、四六時中それを読みふける。そのような時間は遠ざかって久しく、かつ、この先もすぐには望めないものだった。
タミヨウの片目から血が流れ出した。それはゆっくりとした滴で始まり、その一滴一滴が小さな落下音を立てて机に落ちた。彼女が巻物を読み続けると、もう片方の目も同様に血を流し始め、その一滴一滴がもう片目のそれと交互に滴り落ちた。ぽたり――ぽたり。ぽたり――ぽたり。ぽたり――ぽたり。
そしてジェイスが恐怖とともに見つめる中、肉の格子構造がタミヨウの両目に成長を始め、やがて完全に覆い尽くした。エムラクールの証。この数日、あまりに多く見てきたものだった。血は格子の間から滴り続けた。ぽたり――ぽたり。ぽたり――ぽたり。ぽたり――ぽたり。
その格子がそこかしこに花開いた。肉的な成長がタミヨウの指から弾け、両手を網のような構造で覆った。その成長は机まで達し、突き刺され、彼女の両手を机に拘束した。彼女はもはや見ることも手を動かすこともできなかった。血は両目から滴り続けていた。ぽたり――ぽたり。ぽたり――ぽたり。ぽたり――ぽたり。
両目と両手の機能を失っても、タミヨウはずっと囁き続けていた、とはいえ聞き取れる音は発せられなかった。肉の触手が彼女の口を蜘蛛の巣のように覆い始め、エムラクールの糸によって両の唇は固く閉じられた。そのように口を縫い閉じられてもまだ格子は成長を続け、ぴくぴくと悶えた。触手は彼女の口を閉じてなおも伸び、広がり、今や両目から滴り続ける血を受け止め、丸め、油ぎった皮膚へとその血を浸み込ませるように動いた。ぽたり――ぞわり。ぽたり――ぞわり。ぽたり――ぞわり。
タミヨウは動かず、両目も、口も、両手も凍り付いていた。ジェイスはかつてタミヨウの精神に直接触れ、彼女の精髄を何よりも知った。見て、話して、書くタミヨウの力はその魔法に、交信に欠かせない道具。彼女を定義するもの。彼女は消し去られていた。ジェイスは絶叫し、窓を叩き、だがタミヨウもその部屋の何も動かなかった。その窓は不透明な石へと消えた。
ジェイスは崩れ落ちた。この場所は何なんだ? これが友の精神なんて事はありえない。だろう? 影が迫った。疲労を感じた、とても。彼はのろのろと立ち上がり、降り続けた。
リリアナ
この力。これは新たな発見。必要だったのはただ、リリアナの意志だった。欲望だった。長い間ずっと、彼女は目的だけを見て、目的のために突き進んでいると思っていた。死なないために。悪魔の拷問者を殺すために。だが今や知った、自分は最後の一歩を踏み出すことをずっと望んでいなかったのだと。最後の障壁を踏み越えることを。私は自分を抑えていた。何て愚かだったのかしら。
目の前にはエムラクールがそびえていた。エルドラージの巨人。時よりも古い存在、もし脳内の声が真実を語っているならば。『あなたも一つの存在、強大な存在、だけど生きているものでしょう。そして生きているなら、死ぬわよね』 もう一度微笑み、『それなら、私のもの』
ヴェールの魔力が彼女の制御下でもがき、暴れた。それらは萎びさせ、殺すために振るわれたがっていた。力は振るわれるためにある。彼女はそれを集め、形成し、屍術のきらめくエネルギーを爆発させ、エムラクールの巨大な姿に続けざまに放ち、巨人をその力で後ずさらせた。
リリアナの脳内に歌が響いた、何もかもを汚す歌が。それは力の歌、とても甘美な旋律で歌っていた。私はこのために生まれた。これこそ私の運命。エムラクールに攻撃が当たる度に、傷と壊死の溝が残され、塔ほどもある巨大な触手がしなびて縮んだ。ある程度は再生したが、リリアナの次の攻撃には間に合わなかった。開花してから初めて、エムラクールは縮んでいた。押し込まれていた。リリアナが優勢だった。
《最後の望み、リリアナ》 アート:Anna Steinbauer |
鴉の男の声が、下水の冷たい水飛沫のようにその楽しい時を切り裂いた。『君は自分が何をしているかをわかっていない。愚かにも何をしているのかを。これほどの力を長く保持できると思わない方がいい』
一語一語に嘲りを込め、リリアナは思考で返答した。『つまらない男ね、狭い了見で私を封じ込めようとしないで。今日この日、私はエルドラージの巨人を倒すの。何故って? 私がそうしたいからよ』
彼女はゲートウォッチがまだ意識を保っており、自分の勝利を目にできることを願った。力とはこういうものよ、申し訳程度のかわいそうなプレインズウォーカーさん達。彼女はエムラクールへと更なる爆発を放ち、攻撃を続けた。
ジェイス
また別の窓がすぐに現れたことに、ジェイスは驚かなかった。この時はチャンドラだった、もしくは少なくともチャンドラだと思った。まだ幼さの残る、だがそれでもその赤毛と容貌はいつの日か成長する女性の姿を予想させた。チャンドラは脅かすような衛兵の一団に囲まれていた。それらの装備は華麗で色鮮やか、ジェイスが知らない場所のものだった。彼女の故郷。衛兵は槍を掲げており、チャンドラはすすり泣き、涙と慟哭の間から必死に息をついていた。
《カラデシュの火、チャンドラ》 アート:Eric Deschamps |
痩せて長身の衛兵が進み出た。顔には笑みが広げられ、対照的に残酷な言葉を発した。「反逆者のお嬢さん、我々は君のお父さんを殺した。お母さんも。そして次は君の番だ」 その場面は現実ではないと、チャンドラの脳内の悪夢に過ぎないと思った。だが彼の拳は今も握りしめられていた。こんな苦痛を耐えなきゃいけないなんて。衛兵達は槍を手に前進し、彼らの隊長はあざ笑うように言った。「そして最高なのは、究極に最高なのは、君には何もできないという事だ」
チャンドラはすすり泣きを止め、処刑者を見つめた。その片目から炎の小さな塵がひらめいた。「それは間違いよ」 彼女は言った。全くもって子供の声ではなかった。「私にできる事はあるの」 ジェイスが見つめる中、彼女の身体が変化し、成長し、彼の知るチャンドラの姿となった。「いつだってできる事はある。私は、燃やせる」 炎が彼女の髪と両手から噴き出した。
彼女は微笑み、衛兵達は不安に後ずさった。彼女は一歩進み出た。「あんたたちを燃やせる」 隊長が燃え上がった。彼は苦悶に悲鳴を上げた。「全員、燃やしてあげる」 今や他の衛兵達も燃えており、彼らの皮膚は音を立てて泡立ち、甲高い悲鳴が空を貫いた。「世界全部を燃やしてあげる」 熱と光と炎が弾け、焼け付く白いエネルギーが、何もかもを覆い尽くし燃やし尽くした、チャンドラまでも。彼女は叫び、とはいえそれは苦悶なのか歓喜なのか、ジェイスは定かでなかった。
《燃え立つチャンドラ》 アート:Steve Argyle |
その窓も石へと消え、だがジェイスは今もその壁が熱を発しているのを感じた。幻影術の第一法則。脳内にしか無いからと言って、それが君を殺せないとは限らない。
ギデオン、タミヨウ、チャンドラ......だがリリアナはまだだった。焦りの中で彼は階段を下り、次の窓が現れるのを熱心に探した。人影が壁の向こうに見えると、ジェイスの表情が曇った。ああ、ニッサか。彼は失望しないように努めたが、そのエルフのプレインズウォーカーを理解するのは難しいと感じていた。
ニッサの背景はまさにこの外の世界のようだった――暗く紫色の空、光の奇妙な閃き、エムラクールの迫る影、リリアナと彼女が従えるゾンビ。ニッサはその中央に、苦しみながら立っていた。彼女は叫んでいた。悶えていた。よじれ、何かが......彼女の両手でのたくった。
《奇怪な突然変異》 アート:Dan Scott |
近づいてよく見ると、ニッサのそれぞれの指から小さな指が十本ずつ伸びていた。そして毛が――違う、その小さな指から更に細い指が成長した。彼はぞっとして、だが彼女の目を見て思わず悲鳴を上げた。ニッサの眼窩から幾つかの小さな眼球が飛び出し、そこから更に複数の小さな目が。緑色のエネルギーが目と手から閃き、だがその緑色には暗い、暴力的な紫色が混ざっていた。
エムラクールはエムラクールは永遠にエムラクール。
その思考が何処から来たのかジェイスはわからなかった、だがその無意味の中にも真実を感じた。永遠に、これまでも、そして......
「ねーぐりしゅ・ぷとーにき・あぶ・あほーる!」 支離滅裂な言葉がニッサから弾けた、もしくは支離滅裂でないにしてもジェイスが聞いたことのない言葉が。声とともにその頭部は痙攣し、単語の間に彼女の舌は口から垂れ下がった。舌にあるあれは何だ? いや、駄目だ。いけない、見てはいけない。細かい所まで見過ぎた。気付くだけで十分なんだ。駄目だ、俺は見過ぎた。
《熱病の幻視》 アート:Steve Belledin |
無意味な言葉と唾がニッサの口から吐き出され、だが理性ある言葉がその中に混じり始めた。「しぐ・えぷし-すべて・くとぅぐ・おわる! ぐりま-すべて・くとぅ-しぬ!」 そして発作は収まり、彼女の声は力と落ち着きを得た。今や彼女が放つエネルギーは紫色に染まっていた。深い紫色。緑色は一切なかった。ニッサは顔と腕を空へと上げ、そして叫んだ。
「成長! 成長こそが答え! ただ一つの答え! 無秩序は屈しない。けれど勝たねばならないの? 無論犠牲は成されなければ。何故反抗するの? 犠牲無き永遠は軋む無感覚をもたらすだけ。血を泡立たせなさい、濃く泡立たせなさい。何故生を怖れるの? 何故真実を怖れるの?」
ニッサの言葉を認識はできたが、ジェイスの理解力は全く追い付かなかった。無意味だと彼は知りながらも、彼はニッサの心に触れようとした。ニッサ、助けてくれ。俺の理解を助けてくれ。君は何を言っているんだ?
ニッサは身動きをし、視線を動かしてジェイスと窓越しに目を合わせた。俺を見ている。ジェイスは震え、その場に凍り付いた。彼は動けず、目をそむけられなかった。彼女の両眼は暗い紫色に輝いていた。彼女はジェイスへと直接告げた。「私は望むままに何でもできる。何もかも。覚えていて。あなたを救うのはただ......」 紫色の輝きは消え、彼女の周囲の雨雲は消えた。「......私は何も求めない」
彼女はしばしジェイスを見つめていた。歪んで奇怪な表情。飛び出した余分の目が悶え続ける中、窓は慈悲深くも石へと消えた。
ジェイスは壁の前で凍り付いたままだった。彼は震え、汗が髪から顔面へ、そして首筋へと流れた。影は頭上から圧迫を続けていた。どれほど長くこの階段にいるんだろう? 俺の友達に何が起こっている? 下階は今も招き、明るく照らし出して彼を引き寄せていた。だが動きたくなかった。何もしたくなかった。眠りたい。俺は眠れる。目覚めないかもしれない、でもそんなに悪いことだろうか? 両瞼が重くなり、心地良い靄が心に忍び寄った。彼は階段に腰かけた。とても疲れた......
眠気がリリアナを考えさせた。彼女が何処にいるのか、何に対峙しているのかは知らなかった。ここにはいない。この場所にはいない。だがジェイスが思うに、彼女はどのみち自分を決して必要としなかった。「悲しいわよ、しばらくの間は。そしてそれを乗り越える」 自分が死んだらどう思うか、彼女は自邸でそう言っていた。ジェイスの死を、一匹の犬のそれに例えて。犬の。リリアナは俺の死を、本当に犬のそれ程も気にしないのだろうか? それは違う。犬。その思考がジェイスに噛みついた。
眠る、何で今眠るなんて考えたんだ? 俺に何が起こっている? それが真の疲労からなのか、もっと悪意のある影響なのかはわからなかった。それは問題じゃない、結果は同じだ。彼は立ち上がった。下り続けろ。これを見定めろ。死ぬな。エムラクールを倒せ。彼は下り続けながら、リリアナを思った。
リリアナ
危険の最初の兆候は、速度への干渉だった。かつてこれほどの力を振るったことはなく、リリアナは呼吸の速度でエムラクールへと攻撃を放ち続けられた。呼吸、攻撃、呼吸、攻撃。
力は弱まることはなく、だが身体はついてこなかった。彼女は僅かに躊躇し、長く息をついた。その間にエムラクールはうねり、リリアナが予想するよりも素早くその身体と触手が再生した。数本の太い触手がリリアナへと迫ったが、彼女の魔術が触れると即座に萎びて枯れ、だが更に数本が素早く続いた。それまではリリアナからの攻撃ごとにエムラクールは押されていたが、今や彼女は留まり続けるのがやっとだった。
『君は定命だ。限界がある。だがあれは違う』 鴉の男の声が冷たく囁き、彼女の脳裏を突いた。『この草と泥を見ろ、愚か者。自分の墓を作る気か』
彼女は怒りに絶叫し、更なる力の爆発を放った。その猛攻撃に巨人の前進は停止し、だが数秒後にそのエネルギーは減少した。リリアナは大きく喘ぐように息をつき、エムラクールはまたも前進を再開した。
『私はここで死ぬつもりはないの』 彼女は鴉の男へと、ヴェールへと、その声を聞くもの全てへと怒鳴った。彼女自身へと。エムラクールとその触手は止むことのない攻撃を続けた。『今日ここで死ぬつもりはないの』
『リリアナ、君に今日訪れるであろう最も幸運な結末は、死だ。君は私達を共に破滅させようとしている』 鴉の男が軽蔑もなく、憎しみも怖れもなく言った。その声には......諦めがあった。ゲートウォッチを救ってから初めて、リリアナは恐怖を感じた。
ジェイス
ジェイスはまた別の壁が透明になり、リリアナの心象風景を見せてくれることを予想していた。予想していなかったのは、階段が扉で終わっていたことだった。
それは分厚い樫の扉で、鉄で縁どられ、覗き穴も鍵穴もなかった。ただ木と鉄が、階段と通路と壁と同じ分厚い石に囲まれていた。彼は手でその扉に触れた。声が叫んだ。『駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ』、そして純粋な恐怖が脳を掴んだ。だがその声はかき消え、恐怖心は退いた。ジェイスは階段を見上げた。影は近づいては来ず、だが分かれて彼が来た道を見せることもなかった。もし前へ進みたいなら、それはこの扉の先にある。彼は扉を押し開け、その先へ入った。
その部屋には形も色もなかった。心が必死にその空間を把握しようとして、眩暈が彼を圧倒した。ジェイスは永遠に思える引力を感じた。恐怖へと帰る終わりのない反復、忘却という平和を決して知ることはない、ただそのまま、ただ、ただ......そして現実がはまった。彼を取り囲む無は一面の白色へと実体化した。
目の前に、天使がいた。
彼女は近づき、空間が彼女の周囲で、自分達の周囲でゆっくりと形を成すのにジェイスは気が付いた。彼らは現実の場所にいた。一つの部屋、この奇妙な旅の始まりだった聖域の複製にいた。その天使は長身で、彼がこれまで見てきた天使の誰よりも、アヴァシンよりも大きかった。そして彼女の翼は巨大で、分厚く、重く、彼女の背後に広げられていた。まるで茸型の雲のように......
ジェイスの心臓が高鳴り、冷たい汗が噴き出した。いや、まさか、嘘だろ......
彼女の顔は大きなフードに隠され、だが見る限りそれぞれの手に一本ずつ剣を携えていた。彼女の上着は裾で細く何十本と、何百本と裂け、そしてジェイスが見つめていると更に増えていくように思えた。それらはのたうち、悶え、ジェイスに気付いたように彼の目の前の宙を探った。もし叫んだなら、止められるかわからない。だから叫ばない方がいい。叫んだ所で何になる? それが助けになるならいくらでも叫ぶが。
《見捨てられた神々の神殿》 アート:Daniel Ljunggren |
面白さと恐怖が混じり合う中、ジェイスは声をあげて笑った。面白いって感じているとわかったのは嬉しいことだ。その笑い声は停滞を破り、彼の心に火花を散らした。俺はこの天使を知っている。見たことがある。少なくとも彼女の彫像を見たことがあった、ゼンディカーで。彼は声を詰まらせた。「エメリア?」 その言葉は唇から、異質に響いた。
彼女はジェイスを見たが、その顔はフードに隠されたままだった。彼は裾と剣に注意を払っていたが、どれも攻撃してくる様子はなかった。ジェイスは少し安心した。
「君は......君が......エメリア? 君は......エムラクール?」
「座ってもいい?」 女性の声だった。軽かった、ほとんど空気のように。この状況でなければ、歌うような声だとすら言えたかもしれない。こんな状況でなければ。その声を発する唇の動きを彼女のフードの先に見ることはできず、だがそれは自然な声のように響いた。自然っぽい声。
ジェイスは必死にその声を分析し、何が実際に尋ねられているのかを判別するまでに一瞬を要した。「俺に聞いてるのか?」 この日驚くことは幾つもあったが、礼儀正しく尋ねられることはその一覧の上の方にはなかった。けどこれが一番だな。
「ここはあなたの家」 一呼吸。「ジェイス。ジェイス・ベ-レ-レン」 音節を区切るような発音。
俺は今まさに心から恐怖している、だが興味もある、同時に。なんて奇妙な事だろう。
「私はただの客。座ってもいい?」 彼女は立ったままで待った。
今日は一体どれだけ非現実的なことが起こるんだ? とはいえその問いに現実の答えを求めてはいないのは確かだった。何が重要なのかを思い出せ――死ぬな。これを見定めろ。エムラクールを倒せ。彼は呪文のようにそれを自身に言い聞かせ、そしてもう一文を付け加えた。歓迎しろ。エムラクールに茶を出せ。彼は微笑み、その笑みが顔に現れた。「勿論です。どうぞ、座って下さい」 ジェイスは軽やかに石造りの机を示し、エメリアは――いや、俺はこいつが何なのかはわからない、想像するのは止めろ、その天使は机の傍に座った。
彼女は二本の剣を両方とも背中の鞘に収め、そして机の上に手を戻すと、それらは大きな巻物を手にしていた、鉄の輪で閉じられた巻物を。同じような巻物を見たことがある。何処だったか? 「話ながら作業してもいい?」 その軽快な声はまるで、アゾリウスのギルド魔道士が協定の一文を参照するように、まっすぐに発せられて響いた。
この非現実を受け入れろ。反抗を止めろ。成り行きを見守れ。「勿論です、どうぞ。あなたの仕事を邪魔はしませんから」 彼女は頷き、巻物を広げた。這うような感覚がジェイスの脳裏を刺した。俺はあの巻物をどこで見た? だが思い出せなかった。何処からか長い鉄筆が現れ、彼女は巻物に記入を始めた。
ジェイスは咳払いをした。「ええと、俺達は......ええと、ご存知の通り、話すんですよね。あなたは本当は何者なんですか? この場所は一体? 何が進んでいるんですか?」 ジェイスは回答の出所を選り好みする余裕はなかった。相手の精神を読みたいという、いつもの本能を抑えきれなかった。無知は狂気よりも遥かに悪い。だがそこには......何もなかった。何も掴めなかった。明かされない秘密は何も面白くはない。ならば回答は、誰もが使うありふれた手段で得るしかなくなった。言葉を通じて。エルドラージの巨人との会話を通じて。
「あらゆるものが終わる。あらゆるものが死ぬ。完全は常に見えないもの。時の流れは一方向」 そこには先程聞いたニッサの狂気の言葉が残響していた。だがそれが今も天使から発せられているのかはわからなかった。彼女は顔を上げずに記述を続けており、こんなにも軽い声がこれほどまでに奇妙な声を発する様を、そのフードがぼやかしていた。
「あなたはエムラクールなんですか?」 ジェイスは自分がどれほどの危険を冒しているのかはわからず、そして次第に気にしなくなっていった。勝ち手がある時こそ用心を。「何を望んでいるんですか?」
彼女は記入を止め、巻物を注視した。「これは何もかも間違い。私は不完全で、足りなくて、始まったばかり。不毛の怨嗟ではなくて、花が咲くべき。土は受け入れてくれない。私の時じゃない。今はまだ」 まだ。その語調はジェイスの首筋へと震えを走らせた。彼女は記入を再開し、広い範囲にインクの染みが乾いていた。
「止めて下さい!」ジェイスは叫んだ。「あなたは理由があってここにいるんでしょう。幾つもの方法で俺を殺せるんでしょう、その剣でも触手でも、でもそうしない。ここに座って、全く無意味なことを......どうしてです? 俺はわかりません、あなたの言っていることも、あなたが何を望むのかも。助けて下さいよ、お願いです」 ジェイスのその怒りは言葉とともに冷え、もっと有用な別のものに取って代わられた。集中。彼は霧が晴れるのを感じた。どれほどぼんやりしていたかが判るだけの霧が。
「チェスはやる?」 これまでと同等の無意味がジェイスによって更に噴出させられたかのように、声が続いた。彼は再び叫びたくなったが、それでは何も良くはならないと考えた。それを置いても、彼はチェスを嗜んでいた。そしてとても得意だった。
「ええ、やりますよ」
「それ、私と遊ばない?」 彼女は記入を止めて巻物を片付けた。
「その時間があるかどうか......」
「もしあなたが勝ったら、これは全部止める。あなたの質問に全部答える」 彼女は巻物を背後に押し込んだ。
ジェイスは罠を予想したが、彼はチェスが本当に上手だった。「もしあなたが勝ったなら?」
「私はもう勝っているから。ジェイス・ベレレン。遊びましょう」
「あの、一つ問題が」 ジェイスは周囲を眺めた。ラヴニカ、彼の現実の自宅にはチェス盤があった。ボロスから贈られた極めて意匠を凝らしたものが。だがこの奇妙な幻影の中にそれらしき盤は見当たらなかった。「ええと、無いみたいなので......」
天使が手を振るうと、巻物があった卓上にチェス盤が出現した。盤と駒は分厚い石で、詳細までも丁寧に作られていた。ジェイスは眉をひそめ、天使はそれに気付いたとしてもその様子はなかった。チェス盤を作れる程に彼女が自身を抑えているのなら、それはそれで大丈夫だ。「いい?」 彼女は盤を示した。ジェイス側は白、そして彼が先攻だった。太っ腹だな。
「ジェイス、もっと早く。時間がないの」 早く? 彼はほぼ瞬時に動かしていた。彼女は特段熟達した指し手には見えず、ジェイスは六手か七手でチェックメイトできると見積もった。
「私達のやり取りは難しい。あなたに話すことはできない。あなたが存在するのかも実のところは知らない。でもあなたは、あなたの脳は、すごく......適応力がある」 そして悪手。彼は五手でチェックできる。勝利を確信し、彼は手を止めた。今のは実際に使える情報だった。
「じゃあ、この全ては何なんですか?」 彼は両手で周囲を示した。「あなたは一体? 俺の『適応力のある』脳にどうやってこれを起こさせたんです?」
「私よりもあなたの方が、その答えを知っているでしょう」 彼女は一つの駒に触れ、躊躇した。「もしくは、少なくとも、あなたの一部はそう。頭痛の具合はどう?」
どうして俺の頭痛を知っているんだ? 実際、それは低い脈動にまで収まり、気にはなるが弱るほどではなかった。「それは......大丈夫です。なら貴女はエメリアじゃないんですか? そもそも現実なんですか?」
「私は遠い昔に人格化された。力へと道理を説くことはできない。伝搬の波の中に作用は存在しない。知覚できないものを、理解できないものを手っ取り早く掴もうとするなら、否定する私は誰? 誰でもない。もしかしたら、それはあなた」
頭痛が増した。ジェイスと......その何かはもう数手を交わした。チェックメイトは遠ざかった。ジェイスが熟考するごとに、目の前の全てが奇妙な感覚となっていった。これはエメリアじゃない。エムラクールじゃない。エムラクールから感じている圧力か放射かの意味を取ろうとする自分の精神的試み。それを把握するために、人格化すらしなければならなかった。だがその擬人格を信じることは死を意味した。もしくはもっと悪いものを。眩暈。永遠に、えいえん、えい、え、えめ、えむら......
止めろ。彼はクイーンを掴み、それを正しい位置に動かした。「チェックメイトです」 そして微笑んだ。このゲームに勝つことの意味はわからなかったが、だが勝つのは良い気分だった。何かに勝つのは。彼女は手を止め、盤を見た。
「そうね」 彼女は両手をフードに触れ、それを下ろした。彼女の姿を知りたいとは思っていなかった、唐突にそれを実感してジェイスは反射的にひるみ......だが彼女はありふれた姿だった。一体の天使のように。ゼンディカーで見た彫像のように。彼は長くゆっくりと、息を吐いた。
彼のクイーンの隣のポーンが一つ、もがいて姿を変えはじめた。手と小さな石の剣がそのポーンに現れ、振り向いてクイーンを刺した。クイーンは悲鳴を上げ、血がその脇腹から溢れ出した。そして地面に崩れ、血を流しながら震えていた。死んでいた。ジェイスの他の駒も変化し、変異し、盤は大混乱と化した。それらは互いを無慈悲に攻撃し、殺し合い、やがて残った駒数体が旋回して盤の逆側を向いた。今や全てが武器を持ち、その武器は血を滴らせ、そしてゆっくりと、今やジェイス自身を体現する王へと進軍を始めた。
ジェイスはその混乱を唖然として見つめた。「わ......これは......こんなのはおかしい! いかさまだ! そんな事をするな! 俺の駒だ!」
《脱出》 アート:Franz Vohwinkel |
天使の顔が融けはじめた、彼女の姿から肉の塊がぬかるみ――翼、剣、裾、そして全てが――紫色の煙へと消えはじめた。だが声は残っていた。
「ジェイス・ベレレン、これは全部私の駒。ずっとここにあったもの。もう遊びたくないだけ」
外で大きな摩擦音、そして爆発音があった。部屋の天井が引き裂かれ、今や見慣れたエムラクールの光景を露わにした。巨大な茸型の雲と何百もの触手とひらめく雷が、その部屋を貪ろうとしていた。
声は続いた。軽く、そよ風のような声が。「来るの、ジェイス。私が来る。動き続けて。答えを見つけて。でも早く。時の流れは一方向、そしてとても飢えているから」
部屋の向こうに一つの扉が現れた。その背後からは鮮やかな青色の光が漏れ出していた。ジェイスは頭上のエムラクールをもう一瞥し、駆けた。
リリアナ
リリアナは生き続けるためにあらゆる手段を試みた。
鎖のヴェールの影響を押し留めるために、自分の力の幾らかを使った。皮膚がひび割れるのを、血管から血が迸り出るのを防ぎ続けていた。鎖のヴェールを完全に支配し、その真の使用法の秘密を知ったと思っていた。
それは誤りだった。
だが皮膚が裂け血管が弾ける苦痛も、エムラクールの猛攻撃がもたらす忘却よりはましだった。彼女は今も相当量の力を引き出しており、だが今その力の全てが一つの目的のために使われていた。もう少し生き続けること。
余裕は底をついていた。リリアナの魔術をものともせずエムラクールは攻撃し触手を振るうと、彼女はゾンビを攻撃に向かわせた。それらは噛み、掴み、エムラクールを叩いた。まるで嵐と戦う蚤のように、そして効果も同じほどだった。ゾンビはエムラクールの攻撃によって何百と破壊され、更にリリアナが更なる一瞬を生き続けるための魔力を引き戻すと、もう何百が触れられることもなく消滅させられた。
《リリアナの精鋭》 アート:Deruchenko Alexander |
敗北が差し迫る中、慰めがあるとしたら、脳内には幸福な静寂があることだった。鴉の男の声も、ヴェールの詠唱や囁きもなかった。現実は血と苦痛と、生き続けるための絶望的な戦いだったが、心は彼女のもの、彼女だけのものだった。それは慰めだった、そう受け取ることを選ぶのだとしたら。
リリアナの胴ほども太い巨大な触手が一本、叩きつけられて彼女の腰を掴んだ。彼女は怒りに絶叫してその触手を爆破し、その乾燥した肉を引き剥がした。彼女は血を吐き、よろめき、だが更なる触手が迫った。
彼女はここで死につつあった。
他のプレインズウォーカー達を見ると、今も彼らの身体はリリアナのゾンビが与えた広い空間に守られていたが、その輪は縮みつつあった。ニッサはもはや叫んではおらず、意識なく皆とともに横たわっていた。ジェイスだけが立ち、青いゆらめきが今も彼らを守っていた......何かから守っていた。だが彼は動かず、口も開かなかった。
「ジェイス!」 その絶叫に反応はなかった。認識した様子もなかった。
「ジェイス、この役立たず! 何か役に立つ事ができないの!」 エムラクールが圧迫する中、彼女はそう言うのがやっとだった。一瞬一瞬が瀬戸際だった。彼女は繰り返し自身に言い聞かせた。もう一瞬。もう一瞬。もう......
ジェイス
エムラクールの攻撃から逃れるべく、ジェイスは開いたポータルから飛び出した。
彼は狭く暗い部屋にいた。それもまたラヴニカの、彼の最深部の聖域の複製だった。そこに、目の前にいたのは、ジェイス自身だった。
《秘密の解明者、ジェイス》 アート:Tyler Jacobson |
塔の中で最初に目覚めてから経験してきた狂気全てに比べたなら、自分自身に対峙するという混乱はずっと温和なものだった。
「ああ、まだましな方か」
複製は笑むことも、動きもしなかった。「着いたね。間に合ったよ。でも君が俺なのかはわからない」彼はしばし考えた。「この謎に答えて」
「何? 俺は謎を解いた。要るのは答えだ。何が――」
「まず、謎だ」複製は言った。
「冗談だろ。ここに立ったまま問題を聞くつもりはない。君は手に負えない暴君と化した俺か、もっと悪くて悪意のある偽物のどっちかで、ただ時間を使わせようとしているだけだろう!」 ジェイスは怒りの叫びでその説教を終えた。
その複製は気取った笑みを浮かべ、眉を上げてそこに立っていた。俺は本当に怒っているのか? この怒りだ。これで動かないと。
「怒りたいのは、俺が正しいと君が知っているからだ。君は俺、俺はそう知らないといけない」 もし自分自身の顔を殴ったなら、その効果は向こうに現れるのだろうかとジェイスは思った。ありそうだ。
「どうやって知るんだよ、君が俺だなんて?」 それは最も鋭い返答ではなかったが、彼の全力だった。彼の脳は今、あまりに多くの物事を処理していた。
「何故なら俺こそが答えだからだ。君は時間を浪費している、俺達にはない時間を」 その複製は足先で床を叩いた、ジェイスがとてもよく知るように。俺は他の人間とまた干渉できるんだろうか。凄く厭わしいことなのに。
彼は肩を落とし、手を振った。「いいよ、尋ねてよ」
「小石ほども大きくないのに、閉じたなら世界を覆う。俺は何だ?」
「それ? それが謎なのか? 俺が君だって確認する安全策がそれか? 君は偽物だろ、俺はそんな馬鹿だなんて信じたくない」
「君はまだ問題に答えてない。答えないなら、このやり取りはすぐに終わるよ」 複製の目は青く輝いた、ジェイスがあくまでも自分の脅威を見せつけたい時のように。君が今もこれからも危険な存在だと思い出させるのは良いことだ。
「は。もう少し難しい謎が来ると思ってたんだよ。目。答えは目だ」 ジェイスは複製を見つめ、説明するようにこれ見よがしに数度瞬きをした。「俺は全ての世界を見る。今は見えない。見る。見えない。この謎が何で役に立つんだ?」 複製は力を抜き、準備していた何らかの呪文を解いた。
そしてジェイスは理解した。その謎の重要な点は、彼がそれを解けるかではなかった。重要なのは、彼がその簡単な謎にいかに見下げて疑うかを確かめることだった。彼は頷いた。ああ。これは俺だ。そして複製も同じことを考えていると知った。
「正解。俺は俺だ。つまり、俺は......ああ、俺達は俺達だ。たぶん。君は答えを手にする」 ジェイスは複製の心を読もうとしたが、何も起こらなかった。
「ここではそれは使えない。ここでは話すんだ」 もう一度、はにかむ笑み。
「わかったよ」 ジェイスは歯を食いしばらないよう努めた。「話そうか。さあ」
複製は少し考えた。「俺はまだ全部は知らないんだ、君が何を知らないかを。質問してくれ」
「ここは何処なんだ?」 ジェイスはそれが最も火急の質問かどうか定かでなかったが、この見捨てられた塔をさまよい始めてから長く、自分がどこにいるかを本気で知りたかった。
「本当に、まだそれを把握していないのか?」 わざとらしい、ジェイスはそう思ったが、そのわざとらしさは自身のものだという事実にも怒りは弱まらなかった。そしてその一瞬の怒りに彼は理解した。思い出した。
エムラクールが出現し、開花し、咲き誇っている。リリアナと彼女のゾンビによってエムラクールの下僕から一息つくことができたが、彼らの誰もエムラクール自身の力に対しては備えていなかった。物理的な攻撃はわかりやすいが、真に危険なのは精神的攻撃だった。彼がこれまでに感じたことのある何とも違う圧力、苦痛。タミヨウが鳴らしてくれたチャイムの術は即座にかき消えた。計画を練る時間はない、考える時間もない。
彼が唱えた呪文は反射的なものだった。差し迫った崩壊から心を守るために、ずっと以前に準備していたもの。
俺は塔の中にいるんじゃない。俺がその塔なんだ。全てがあるべき位置にはまった。友の場面、エメリアとの会話、今この会話ですら全ては心の中で、自分自身の呪文の力によって維持され構成された中で行われている。『ジェイス邸へようこそ、楽しんでいってくれ』 だが友人の心の中に見た場面を思うに、誰も楽しんでいないことは確かだった。だがこの外は忘却、もしくはもっと悪いもの、永遠に、えいえん、えい、え、えめ......
彼は激しくかぶりを振り、その人影を振り払おうとした。そして複製も同じ動きをしていることに気付いた。エムラクールからの圧力は増していた。ジェイスが見上げると、部屋の上部が震えていた。攻撃されている。来ている。
「それで君は何なんだ? 俺なのか?」
「イニストラードは奇妙な場所だ。危険な場所だ。到着してすぐ、俺は何かがおかしいと知った。俺はある程度の......安全策を立ち上げた、何か破滅的な出来事が起こった時に備えて。謎の中の謎、影の中の影。エムラクールは俺が、俺達が見てきた最も恐ろしいものだ。だから俺は自分を自分から切り離し続ける万一の計画を立てた。何が本当に起こっているのかを把握し、できれば止めるために。直すために。わかったかな」 そして今や、彼は知った。
《パズルの欠片》 アート:Magali Villeneuve |
彼は自己変化にとても長けていた。彼は震え、どちらの自分が真のジェイスなのだろうと思った。より良いジェイス。無意味だ、無論それは俺なんだ。
「ねえ、ところで」 複製は微笑んだ。「自分だけで進もうとするなよ。君はこの部屋で二番目に賢い人物ってだけなんだからさ」
「そうだな」 ジェイスの心がうなりを上げて動きだした、馴染み深く快適な速度で。「計画だ。俺はただつまらない謎を言ってもらうためだけに君を作ったんじゃない。俺達はエムラクールを倒す方法を知らないんだ」
「タミヨウと話すんだ。彼女はエムラクールが攻撃してきた時、面白いことを話してくれる最中だった」
「タミヨウと話す? それが君の有用な助言か?」
「いや。俺の有用な助言はこうだ。ラクドスとゴルガリの殺戮パーティーが永遠に続いてるような狂気の中でも、全員どうやって普通に歩いて話して考えればいいか、見定めろ。正直、難しい技だ」
「ああ、そうだな。ありがとう俺。ご苦労さん」
「全員が少々まずい状況だ。けど少なくとも俺達は筋道立って考えられる。この外は......ちょっとやばいよ。それに別の問題もある」
「それは......」 それを尋ねようとした瞬間、答えが脳内に広がった。ジェイスの二つの部分が融合し、一つとなった。言葉、だがその言葉は同時に彼らから発せられた。
「リリアナが死にかけている」 ジェイスは呪文を解いた。塔は現実へと消えた。
ジェイス
ジェイスは混沌へと帰ってきた。リリアナは彼の目の前に横たわり、意識はなく、幾つもの傷から多量の血が流れていた。頭上には完全に開花したエムラクールが浮遊し、鮮やかな薄紫色の光がその身体の中心で輝いていた。彼女の嵐の目。その触手は太く分厚く、スレイベンの残骸を消し飛ばしていた。
《約束された終末、エムラクール》 アート:Jaime Jones |
リリアナのゾンビはジェイスの呪文以前のものから、僅かな断片しか残っていなかった。エムラクールの狂気に冒された人間も獣も再び集合しつつあり、その防御を破ろうとしていた。エムラクールの精神攻撃から身を守ったところで、彼女の下僕が自分達を裂くことは防げないと思われた。
他のプレインズウォーカー達はジェイスの直後に意識を取り戻したらしく、よろめき混乱していた。ジェイスは友へと集中を向け、エムラクールの攻撃のもつれた網を払った。『チャンドラ、ギデオン。リリアナのゾンビが助けを必要としている。エムラクールの下僕を通すわけにはいかない』 断固とした兵士の速度でギデオンが先に動いた。エレボスの鞭の記憶がジェイスの脳裏に閃いたが、彼はそれを振り払った。
チャンドラは立ち止まった。『私は......私はまだあれを燃やせる。やれるわ』 その躊躇は消え去り、ジェイスが魅力的かつ不思議に思う天性の確信へと変わった。彼女は確信とともに動いているんじゃない。それが彼女についてくる。妙なものだと彼は思った。そして躊躇した、エムラクールを燃やそうとするのは良い策とは思えず、可能とも思えなかった。だがこれはただエムラクールが彼と、彼ら全員と遊んでいる頭脳戦ではないと誰が確信できるだろうか?エムラクールは彼の心の中に入り、その力をすでに感じていた。
ジェイスは全員へと思考を送った。彼の防護呪文がそれぞれの心を繋いでいた。『駄目だ、チャンドラ。エムラクールは大きすぎる。強すぎる。そうやっては倒せない。倒せるのかどうかもわからない』
『ジェイスの言う通りよ。エムラクールを燃やそうとするのは、海に松明を投げ込むようなもの。意味はないわ。もし力線が全部使えたとしても。あれは......巨大すぎる』 ニッサの声は奇妙に、遠く聞こえた。彼女は蔓や芽や葉を織り上げ、湿布のようにリリアナの傷を包み、彼女の生命を保った。『エムラクールはずっといたの、私が目覚めた時に、灯が覚醒した時に。もしかしたら、終わりの時にもそこにいるのは、正しいことなのかもしれない』
『ちょっと、あんまり味方多すぎても困るんだけど、ふん』 その言葉に反して彼女の声は陽気だった。『嫌な話はもう沢山。もっと、どうやって勝つかを話してよ。私は燃やすから』 チャンドラはゾンビの群れの外縁へと駆け、炎が狂った狂信者を押し留めた。
『ジェイスさん。アヴァシンの言葉を覚えていますか』 タミヨウの声、それは陽光差す海岸の軽やかな微風のようだった。
残響が脳内に鳴った。狂った天使が創造主へと向けた、最後の言葉。『破壊し得ぬものは縛られるべし』
『ジェイスさん、それが答えです。私達がやるべき事です。エムラクールを倒すことはできません。束縛するのです』 タミヨウの声には力があり、そして澄んでいた。ゼンディカーにてゲートウォッチは同様の難問に直面し、その時彼らは倒すことを選んだ。だがこのイニストラードにて選択肢はなかった。エムラクールは彼らの力を遥かに凌駕していた。破壊を選択したなら、破壊されるのは彼ら自身だった――そしてイニストラードの全てが。
『どうやってです? あれを束縛するのも破壊するのも、同じように不可能だと思います。あれを封じられる牢獄なんてあるんですか?』
『何百年もの間、イニストラードのあらゆる怪物を封じてきたものと同じ牢獄です』
『獄庫?』 ジェイスは混乱した。『それは破壊されたのでは?』
『獄庫ではありません』 タミヨウが返答した。『獄庫の由来です。月です。銀の月。私は束縛呪文が使えます、力強いものが。それを月に合わせられます。ですがエムラクールに繋がないと......』
ジェイスの心がはやった。自分達にはできる。タミヨウの呪文をエムラクールに繋げられる。けれど力が要る、その呪文の燃料となるような。『ニッサ......』
ニッサは黙ったまま、リリアナを包む湿布に今もマナを吹き込んでいた。リリアナの呼吸は安定していたが、まだ意識はなかった。ジェイスはニッサへと温かな感謝がうねるのを感じたが、今はそれよりも彼女から必要としていた。遥かに多くを。『その呪文を強化できるか?』
ニッサの声は冷たく、静かだった。『ううん。ここに私が触れられる力線は僅かしかない。触れたいと思うのは本当に少し』 ジェイスは考えた。次に何を言うべきか、もしくはどうやって彼女を助けるべきか定かでなく。『でも私はあなたに借りがある、ジェイス・ベレレン。やってみるわ』
『俺に借りが?』
『私の心は私のものじゃなかった。私はあれの出現がもたらした暗闇に捕われていたの。私はあれに取り込まれた、とても簡単に。それは......楽しくはなかった。でも、あなたがその恐怖から助け出してくれた。あなたには才能があるの、難しいことを凄く簡単にやってしまう才能が。私も、できる事をやってみる』
ジェイスはまくし立てた。『うん、ありがとう......本当は俺じゃないんだけど、ああ、つまり、俺はその呪文を唱えたけど。その時は本当に考えたわけじゃなくて。それに実際もしかしたら悪化させてたかもしれない、何故かっていうと......』
『ジェイス、それは「ありがとう」でいいの。あなたは簡単な事を凄く難しくする才能もあるのね。私の準備はいいわ』
ジェイスはどう答えて良いかわからず、そのため答えなかった。『タミヨウさん、いいですか?』
タミヨウは一本の巻物を取り出した。ジェイスの心に別の記憶が閃いた。あの天使は長い巻物を手にしていた、鉄の輪の巻物を。それはエメリアとの精神的会話の中、彼が見たタミヨウの巻物だった。だがタミヨウが選んだそれは鉄で閉じられてはいなかった。
その謎について考える余裕はもはや無かった。彼らを取り囲む空間は縮まっていた。ギデオンとチャンドラがそれぞれでエムラクールの下僕を押し留めていたが、一度に全てを相手にはできず、そしてゾンビは蹂躙されかけていた。限界だった。
『準備できました』 タミヨウが答えた。彼女は巻物を読み始めた。ジェイスはゼンディカーでウギンとその面晶体の操作から集めた知識を元に、タミヨウの呪文をエムラクールへと繋げることに集中した。そのため彼女の言葉ははっきりと聞きとれなかった。月に一つの印が、銀色の面に刻まれた線が鮮やかに輝いた。彼はその印をエムラクールへと縛りつけねばならなかった。エムラクールの存在へと。
《月への封印》 アート:Ryan Alexander Lee |
だがその呪文には魔力が必要だった。魔力の流れが、奔流が。ニッサは背を伸ばして立ち、その両目を鮮やかな緑色に輝かせながらイニストラードに残されたマナの汚染された断片を、ジェイスが使える姿へと織り上げていた。ジェイスは彼女が力線を吸収するのを感じた、そのエネルギーの最後の一片までも。だが足りなかった。足りそうになかった。ニッサは腕の力を失い、地面によろめいた。
呪文が失敗しつつあった。
ジェイスは呪文を保とうとする中、タミヨウとの精神的接続を失った。彼の心の中、タミヨウがいた場所にはただ雲だけが、彼には貫けない暗い灰色の霧だけがあった。タミヨウはまた別の巻物を取り出した。鉄の輪で閉じられた長い巻物、そして二つめの呪文を読み始めた。
魔力がジェイスへと流れ込んだ。彼はマナの、更なる魔法の、更なるエネルギーの大河の中にいた。凄まじかった。彼はその魔法を受け取り、形を変え、忙しく印の各先端にそれを取り付けてエムラクールへの導管とした。そしてジェイスは全力で呪文を放った。
月から光が弾けた。
冷たい、銀色の光線がエムラクールを上空から打った。
光はその生物を浸し、包み......そしてエムラクールは、引かれた。光へと。月へと。
物理的にありえない歪みが現れた。ジェイスの目の前でエムラクールの姿が月の光を通り、引かれて、引かれて、そして......
......弾けた。
エムラクールは折れ、崩れた。ガラスを散りばめた薄紙のように砕け、エムラクールの大きさではありえない、不可能な様で無へと縮まった。
そして光は点滅して消えた。エムラクールは消えた。彼らは勝利したのだ。
月の銀の表面には印の三角形の模様が輝いていた。刻印されていた。傷つけられていた。封じられていた。
しばし、枯葉が風に揺れる音だけがあった。ジェイスの隣で、タミヨウが膝をついて嘔吐した。
リリアナ
彼女はまだ生きていた。
歓喜があった。喜びなら以前に何度も知ってきた。若さを取り戻した日。悪魔王コソフェッドを、グリセルブランドを殺し、それらの死の絶叫を聞いた時。その時ごとに、自分は不正をしていると感じていた。最高の不正を。それと一緒に逃げて、それでも最後には勝つ。
だが今回はもっと甘美だった。自分は死にゆくと真に知っていたからかもしれない。あまりに無分別に自尊心からエムラクールに打ち勝とうとして、乗っ取ろうとして、そしてその何も生きては成し遂げられなかったからなのかもしれない。もうエムラクールはいないからなのかもしれない。その汚れは、その味は、イニストラードから消え去って、いなくなって、全ては良い方向に進むのだろう。
エムラクールを考えて、彼女は震えた。死に近づきすぎた、もしくはもっと悪いものに。彼女は月を見つめた。そこで永遠に腐っていなさい。リリアナ・ヴェスに逆らった結果を思い知りなさい。
このとても長い日が終わる頃、多彩なプレインズウォーカー達が集合した。エムラクールとの戦いは終わったが、まだ消すべき火が、閉じられるべき目が、慰められるべき悲嘆が、癒されるべき肉体の傷が......もしくは癒せない心の傷があった。リリアナは多くを気にしなかった。鎖のヴェールの限界を突く度に、その後彼女は全くの虚無を感じていた、まるで自身の一部が失われたかのように。それは何度も起こり、もはや自身の何が失われ、何が残っているのかも定かでないように思えた。
だがそれも問題ではなかった。良い行いをした、その満足感に彼女はしばし満たされていた。あなたたち誰も、私がいなければ生きていなかったのよ。この世界を救った代価を私が求めないのは幸運だと思いなさい。そう、代価を求めてもよかった。だが今ではないし、イニストラードの誰かに対してでもない。
架空の恩義と忠節が皆に何をさせるか、それは注目すべきものだった。ゲートウォッチの誓いを立てる。彼らは互いに何も負わない、文字通りに何も。それでもここに彼らは立ち、互いのために戦い、互いのために死ぬことを厭わない。リリアナはそういった関係がどうなるのかはよく知っていた。彼女は彼らに頼った、ゾンビとともにいる限りは。それは頼もしい力関係、だがイニストラードは彼女の手法の限界を示した。ゾンビは素晴らしい下僕ではあるが、彼らに成し遂げられない任務は確かにあった。そして独りで戦うことは素晴らしかった......独りで戦わなくなくなるまでは。ありえない事に身構えていなかったら、いざという時に救ってくれる者はいない。
以前、ジェイスが自分に抱く感情を利用しようと考えていた。正確には抱いていた感情の、だろうか。彼はただの男の子だった。もっとよく知るべき男の子。今回の成功にも関わらず、ジェイスは頼もしいほどに当てにならないことを証明していた。私があなたを生かしておいた間、あなたはその呪文で何をしていたの? エムラクールに死ねって思っていたの? ジェイスの行動がもたらした結果を知っても、それは彼に向けた見解を劇的に変えはしなかった。ただの男の子。私がいてあげなくちゃね。
だがここにあるのは、ジェイスとその限界よりも遥かに大きな好機だった。仲間。友であり仲間。この日は新たな発見があった。友の力という新たな発見が。正しく扱うなら、友は優秀なゾンビのようなもの。助けてくれるし命を救ってくれる、何故なら彼らがそうしたいと思っているから。そうしなければならないから、ではなく。
こんなにも強い友と一緒に、何ができるだろう? 何を征服できるだろう、何を手に入れられるだろう? それを思ってリリアナは微笑んだ。彼らは自分の直接の命令には従わないだろうが、何か問題があるだろうか? 彼女から見て子供なのはジェイスだけではない。全員が子供だった。その誰も彼女の何世紀もの経験はなく、彼女が味わった力を知らず、これまでも今も、誰一人彼女のように無慈悲ではなく集中してもいない。
鴉の男の行方はわからなかった。脳内にも外にもその気配はなかった。鎖のヴェールは静かだった。この武器がいかに信用できないものか、今日は極めて苦しい教訓を得た。でも私のゲートウォッチを手に入れたなら、使った後に癒してもらえる......でもそれはまた後の話。だが彼女はその響きが気に入った。私のゲートウォッチ。
ギデオンがふらふらとタミヨウへと近づいた。その空民は気分が悪いようだったが、リリアナはそれを責めることはできなかった。ギデオンの見た目は割と良いが、彼女はもっと賢いゾンビを知っていた。ギデオンはゲートウォッチについて何かを喋った。どのような集まりで、どのように善いことをして、そしてタミヨウも一緒にどうかと。タミヨウは謝ってかぶりを振った。その両目は見開かれて怯えがあった。精神魔道士は時にとても脆い。ジェイスのように、無力になってしまう。
ジェイスは彼女を見つめていた、その子犬のような視線で。せめて心はしっかりしなさい、坊や! 彼女は苛立ちを飲み込んだ。彼と、その子犬のような態度が必要だったのだ。
「ギデオン」 ジェイスの声はためらいがちで、短かった。二人は声を抑えて会話し、リリアナは感じた笑みを僅かでも見せないように努めた。そうよ、外套くん。私を助けたいっていう正直な欲求を煮え切らない感じにうめいてなさい。ギデオンがそれを喜ばないのは誰の目にも明らかだったが、リリアナはまた、ギデオンが果たして何かを喜んだことがあるのかも定かでなかった。少なくともあなた達にはまだ若さと、若い間だけの魅力があるのよ。何で子供ってそんなに鈍いのかしら?
やがてその色男が近づいてきた。そして善いことをしようという善い言葉があったが、リリアナは注意を引くであろう誓いを考えることに集中していた。適切な誓いとはどういうものが良いか、彼女は様々な方向から考えていた。誠実すぎる、感傷的すぎる誓いは疑念を生じさせる――次の一歩を困難にしてしまう疑念が。だが冷淡すぎる、正直すぎる誓いはその疑念を確信へと変えてしまうだろう。必要なのは上品さと、ほんの僅かの皮肉と、だが澄んでまっすぐな心で誓うこと。
ギデオンが誓いを求めてきた時、彼女の準備は万端だった。
《リリアナの誓い》 アート:Wesley Burt |
「一人よりも力を合わせたほうが強力になれるのはわかっているわ。それで私が力を得て、鎖のヴェールに頼らなくて済むなら、私もゲートウォッチになるわ。これでいい?」
彼女はそれを僅かな、ほんの僅かな笑みとともに言った。それでも、そこにある喜びは正真正銘のものだった。最高の嘘は常に、切り抜けるために十分な真実を含んでいるもの。
彼女は今やゲートウォッチの一員となった。その心に、約束と野心に満ちた未来が広がった。
ジェイス
ジェイスは疲れきっていた。人生でも最も長い一日だった。とにかく眠りたかった。夢も見ない、何も考えない眠りを。
だがまず話すべき相手がいた。
彼女はスレイベン郊外の遠く、小さな教会の瓦礫の中に座っていた。スレイベンに残る建物は僅かで、この教会に目を向ける者はいなかった。
《放棄された聖域》 アート:Vincent Proce |
彼女はただそこに座し、足を組んで両目を閉じていた。その個人的な時間を邪魔するのは悪いように思えた。だが彼は知らねばならなかった。
「タミヨウさん......? あなたは......あの、俺......」 自身の疑問をどう尋ねるべきか、ジェイスは定かでなかった。タミヨウは目を開けたが、その表情はまだ気分が悪いようで、彼らが呪文を終えた時以来見せていた怯えがあった。
「タミヨウさん、何があったんですか? あなたはそこにいて、俺と精神を繋いでいて、そして......切れた。消えた。何が起こったんですか?」
タミヨウはそこに座り、泣きだした。涙がその両目から滴り落ちた、一滴また一滴。ぽたり――ぽたり、石の瓦礫に弾けた。
彼女の言葉は動揺し、詰まっていた。「ニッサさんが倒れました。呪文は崩壊の危険にありました。私はどうしたらいいか、どう助けたらいいかわかりませんでした」
ジェイスは驚いた。「つまりニッサは自分であの力を出したんですか? 凄い。あなただと思っていました、二番目の巻物で」
タミヨウは彼を見た、その目には悲しみと嘲りの両方があった。「違います。あなたはわかっていらっしゃらない。あれは私でした。二本目の巻物で。そこから魔力が来ました」
「でも凄いですよ! あなたが俺達を救ってくれたんです! イニストラードを、その......全部を! あの力は、鉄の巻物だったからですか? 開こうとしなかった巻物の」
「止めて下さい、ジェイスさん! 聞いて下さい、ただ聞いて下さい。あれは私ではありません。あれが......彼女が......私を乗っ取りました。お判りですか? 私ではなかったんです! 私はあの場にいて、私の身体のまま、彼女がやって来て、私は無力に乗っ取られました。私の目、私の目、私の声......何もかもが奪われました。私のものではありませんでした」 彼女の叫びは完全なすすり泣きへと変わった。
ある声を思い出した、彼のチェスの駒が互いを刺し、殺し合う間の彼女の声。『ジェイス・ベレレン、これは全部私の駒。ずっとここにあったもの。もう遊びたくないだけ』
「す......すみません、タミヨウさん。知らなくて......」
「ですが、最悪なのはそれではありません。私が開いた巻物です。二本目の。あなたは正しかった。開くべきでなかった。いつの日か答えないといけない、遠い昔の約束。ですが彼女が読んだ呪文は......元の呪文ではありません。彼女は巻物を使って......違う呪文を唱えたのです」
エメリア。何処からか長い鉄筆が現れ、彼女は巻物に記入を始めた。ジェイスは震えだした。
「変わってしまったのです。一体どのように? 一体何故そのような事が?」 タミヨウの声は半ば狂乱していた。「あの怪物が私の身体を奪って巻物を読んだ、この次元の全てに破壊をもたらす巻物......そうではなく彼女自身をここに束縛する呪文に力を与えた。ジェイスさん、どうしてこのようなことが? 何故起こったのでしょう? 私達は何をしたのでしょう?」
「わ......わかりません」 ジェイスは彼女にそれ以上言えることはなかった。自身に対しても。
タミヨウは深い溜息をついた。「ジェイスさん、私は以前言いましたよね。私達の物語も、終わらせなければならない時があると。まだ私達はここにいて、それぞれの物語を引き伸ばそうとしています、対価をいくら払おうとも。ですがもし、あらゆる物語がただ彼女の物語であったなら、どのような悪しき運命が開かれるのを待っているのでしょうか?」 そして月を見上げた。
「私達は本当に勝利したのでしょうか?」 タミヨウの声にはもはや怖れはなく、だが悲哀があった。ジェイスは返答できなかった。やがて彼女は立ち上がり、暗い空へと去っていった。別れの言葉はなかった。
ジェイスはその後もずっと、そこに座ったままでいた。彼は再び銀の光を放つ月を見上げた。ゲートウォッチが成し遂げた証として、その表面には印が鮮やかに刻まれていた。月の深淵には、彼ら全員がかつて遭遇した最も強大で破壊的な力がある。あの天使の言葉が脳裏に突き刺さった、知られざる運命の刃が。『これは何もかも間違い。私は不完全で、足りなくて、始まったばかり。不毛の怨嗟ではなくて、花が咲くべき。土は受け入れてくれない。私の時じゃない。今はまだ』
背筋に寒気が走った。私の時じゃない、今はまだ。彼は月から視線を落とし、一時の忘却を求めて安全な寝台を探しに向かった。
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