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Magic Story -未踏世界の物語-
ギデオンの「オリジン」:アクロスのキテオン・イオラ
ギデオンの「オリジン」:アクロスのキテオン・イオラ
Ari Levitch / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2015年7月1日
アート:Chase Stone |
夜、牢獄は完全な暗闇となった。石壁は闇に覆いつくされ、囚人達のぼろ服に浸み込み、それは壁の高所にある狭い隙間から牢獄内部へと突き刺さる、青ざめた日の光では完璧に洗い落とすことなどできない真黒な汚れとなった。外の風が止むと、暗闇の静寂は多くの囚人達の心をひしぐ重みとなった。
だがその牢獄で初日の夜を過ごす十三歳の盗人、キテオンを悩ませていたのはそれではなかった。牢獄の仕事、規則、物事の全般的な順序。先程与えられたそういった情報の山の中から、その頂上へと抜け出した特定の事項で彼の頭は占められていた。それはドラサス、外国人居住区での友人であり今や仲間の囚人から聞いていた事だった。「ヒクサスが看守だが、この場所を仕切っているのはリストスだ」
その事実を詳細まで示され、キテオンは浮かない顔をしたに違いなかった。「理解しろよ」 ドラサスは警告していた。「リストスは不正規軍が居住区から追い出すごろつきとは違う。あいつは自分を王様だと思ってる。怪物だ。だからここにいる」
「ここにいるのは俺達だ」 キテオンは言い返していた。
「お前がここにいるのは、腐った野菜とちょっとのコインを盗んで捕まった下手くそな泥棒だからだ。俺は喧嘩で放り込まれた。俺達は人殺しじゃない。だから俺が言えるのは、ただ気をつけろって事だけだ」 ドラサスは肩をすくめた、まるで何をしても無駄だというように。
アート:Zack Stella |
ドラサスはキテオンよりも三つ年長で、癇癪持ちだった。彼はかなり以前から収監されており、それは嬉しい再会ではあったがキテオンは彼がそのように肩をすくめる姿など見たくはなかった。彼は別の方向から接触を試みた。
「ドラサス、お前も俺の不正規軍の一人だろ。リストスは俺達にとっても用心すべき奴だ」
「お前はそう言うが、奴は外のごろつきよりもでかいんだ。言っておく、あいつは王様だ」 そしてドラサスはキテオンが議論を続ける前に歩き去った。
盗みや密輸、脅迫の情報網や力を確立すべく外国人居住区へと割り込もとする者は後を絶たない――血まみれ斧のアンテデスのような乱暴者、毒のクレヴァリオスといった陰謀家のように。キテオンにはそういった悪人がわかった――彼は人生のほとんどを、何らかの形でそういった者たちとやり合って過ごしてきた――そして彼はリストスに対面するのが待ち遠しかった。
夜が明けると新入りの囚人達は長い鉄の鎖に繋がれ、粗削りの石壁の複雑な回廊へと列を成して進んだ。キテオンはもう六人の囚人を確認し、うち二人はここを以前にも通ったことがあるようだった。一人の衛兵が重い木製の扉を開き、囚人達は洞窟のような小部屋へと案内された。そこには多くのアクロス人の囚人達が労苦に勤しむ姿があった。
キテオンの独房と同じく、その小部屋の空気は新鮮ではなかった。だが彼の独房とは異なり、そこには黴の匂いが満ちていた。小部屋の中央には回転する車軸が幅二十フィートにわたって床から突き出ていた。揃いの軸が一本、天井へと消え、それらの間で十本程の綱が上下の両方向に巨大な樽を運んでいた。
「アクロスの滝へようこそ」 腰の曲がった衛兵が声を上げた。「ここでは水が上に流れる」 彼は自身の冗談に笑った。キテオンは理解できなかったがすぐにその意味を悟った。
他の衛兵達がキテオンと新入りの囚人達を取り巻き、巨大な六本軸の回転装置へと向かわせた。それぞれの軸が六人の囚人達で動かされており、巨大な樫の車軸を中央にして大きな円を描いて回っていた。
「第一組! 休憩時間だ!」 衛兵が言った。車軸を押していた囚人たちは離れ、痛む筋肉を揉んでは目に入った汗をぬぐっていた。
キテオンは背中を押されたように感じ、別の新入りの囚人の隣で軸の位置についた。木製の梁は触れると滑らかで、数えきれないほどの手が絶えず樽一杯の水を吊り上げるべく押してきたことを示していた。都市国家アクロスが聳える崖、その遥か下の峡谷から。これが牢獄の存在意義だった。労苦と監禁。彼は役畜となるのだった。アクロス重装歩兵隊の訓練とはそんなに違わないな、キテオンは反射的にそう思ってふと笑った。大理石のような肉体を作れ。彼らはそう声を上げた――走り込みと重いものを引く決まりきった日常の中で。だがそれは彼が兵士を目指していた時のことだった。子供の時だった。軍隊を追放される以前、不正規軍となる以前、泥棒となる以前、囚人となる以前。
アート:Willian Murai |
軸を動かすと、肩とふくらはぎが燃えるように熱くなった。彼は一つの樽に集中することで痛みを押し留めようと努めた。それが床から現れて天井へと消えるまで、動きを追って。それを数えてはいなかった。ただ見ていた。そしてただもう一つを追い、更にもう一つを追うよう自身に課した。常に、もう一つがあった。
上昇してくる樽の合間に、キテオンは壊れた樽を片手ほどの囚人達が修繕しているのを観察した。彼らは木槌で鉄の輪を叩いて作業をしていた。その囚人達は健康そうに見えた、満たされていた――多くの食事を与えられていた。
そしてようやく号令が上がった。「第一組! 水だ!!」
キテオンは他の組に声がかかったのを聞いたかどうか定かでなかったが、それを論じる相手はいなかった。身体を支えていた木製の梁から離れると両脚はふらつき、彼は小部屋の隅へと向かった。そこでは煉瓦の小片が急ごしらえの椅子となっていた。
老いて体を壊した囚人達が樽からひびの入った粘土の杯へと水を満たし、それらと古びたパンの欠片を最初の組から囚人達へと順に渡していた。貧相な食事はキテオンにとって何ら新しいものではなかった。アクロスの外国人居住区は華やかさや豊かさでは知られておらず、そして彼やドラサス、小オレクソ、エピコス、ゼノンはそういった食事で多くの日々を過ごして来ねばならなかった。
固いパンに噛みつくと、その中身の粗い食感は馴染みあるものだった。彼は煉瓦の塊を見つけてその上にどさりと座り込んだ。その表面の冷たさに安堵し、彼は口一杯に水を含んで賛辞を送りたくなった。彼は唇へと杯を持ち上げ、口に水を含み、冷たい液体に音を立てさせた。
「貢物だ!」 耳障りな声がそう言って、キテオンの安堵の時間を遮った。その声はキテオンよりも僅かに長身の逞しい男のもので、第一組の囚人達が集まった中を歩いていた。
キテオンは囚人が皆反抗せずに、パンの半分をその男が差し出した袋へと落とすのを見ていた。キテオンは味わっていた水を飲みこんだ。リストス?
その男は近づいてきた。その腰から上は裸で、所々にある膨れた傷跡の生々しい線を保護するように上半身は濃く黒い体毛に覆われていた。
「貢物だ!」 その男はキテオンの前に立ち止まり、繰り返した。
「ああ、いいけど。何があるの?」
その男は不平か含み笑いのどこか中間のような音を漏らした。「小僧、そんな口の利き方をするなら喉に蹴りを入れてやろうか。王は貢物をご所望だ」
「王? あんたがリストスか?」
その男は答えなかった。キテオンは彼の向こう、樽が修理されている様子を見た。幅広い肩の巨漢が、若い囚人の視線を受け止めた。彼は黒灰色の長い髪で顔を飾っていた。
「や、あんたがリストスなわけねえよな」 目の前の男へと注意を戻しながらキテオンは言った。「リストスはおっかない奴だって言われたし」
「その通りだ」悪漢は歯を食いしばって言った。彼はゆすり取ったパンの袋を脇に投げ、だがそれが床に当たるよりも早く、キテオンは石の塊から飛び降りると片足をその男の向こうずねに叩き込んだ。
悪漢はよろめき後ずさりながら苦悶に吼えた。キテオンは素早く立ち上がり、男の顔面へと疾風のような突きを放った。そして反撃の範囲外まで躍り出て悪漢に体勢を崩させ、更なる拳を雨と浴びせるべく身体を向けた。
キテオンは微笑んだ。エネルギーのうねりが彼の内に湧き上がり、彼は痛む筋肉と不平を言う胃袋を忘れた。戦い――これは彼の一部だった。
アート:Eric Deschamps |
リストスの悪漢は牢獄生活の長い乱暴者、ドラサスと諍いをした経験からキテオンはそう言えた。この男は一つの攻撃は受け止められる肉袋だが、その動きは予期しやすく、そしてアクロスの路地でキテオンが戦ってきた悪漢どもと同じく、こいつもお喋りだった。
「てめえの頭蓋骨でワインを飲んでやる!」 そいつは脅しをかけた。
強烈な攻撃をもう一発、キテオンの回避がそれに続き、そして肋骨と顎へ当たる拳をもう一揃い。
喋ってろ。キテオンは相手の周囲を回りながら考えた。キテオンにとって、戦いは反射的なものだった――直観的な、本能的なもの。子供ながら、それは彼の魔術の源でもあると悟っていた。
他の囚人達が彼らの戦いを見守っていたが、間に入ろうとする動きはなかった。キテオンは集まった囚人の中にリストスの姿を横目で探した。その男は近寄りながらも、まだ見守っていた。
そして突然、キテオンの視界の端が弾けた。
彼はその悪漢の素早さを見くびっていた。気がつくと彼は地面に倒れ、既に自分にのしかかっている男が拳を雨のように振り下ろすのを見上げていた。最初の数発が当たった。一発はキテオンの鼻に当たって気分の悪い粉砕音を立て、彼の視界を再び弾けさせた。
立て直さないと。集中しないと。
男の拳が振り上げられ、だがそれが再び下ろされるよりも早く、キテオンの皮膚からエネルギーを脈打つ無数の光の環が燃え上がった。
拳が振り下ろされた。それはキテオンの目の下を叩いたが、彼は痛みを感じなかった。代わりに彼はエネルギーの爆発に満たされ、自身の拳に込めて放った。それは男の顎に命中し、力まかせに砕いた。その行動はキテオンからよろめいて離れる男の悲鳴に中断された。
少年は立ち上がった。光の環は今も身体に脈打っていた。
小部屋は沈黙していた、砕けた顎を押さえてうずくまる悪漢のうめきだけが響いていた。
血がキテオンの鼻から流れ、顎を下り、織りの荒い衣服にしみを作った。彼は赤い血の塊を石の上へと吐き捨て、捨てられたままの袋へ手を伸ばすと中からパンの欠片を1つ取り出した。全員の目が彼に向けられていた。だがキテオンはただリストスを凝視しながら、パンの塊を噛み千切っていた。
リストスが身ぶりをすると、片手ほどの囚人達が集団から前に出て、キテオンを取り囲んだ。
少年は口元から手の甲で血をぬぐうと、それを頬に塗り付けた。彼はリストスの悪漢どもそれぞれの目を見て、そしてその主を見て、にやりと不敵に笑った。
程なく衛兵達が囚人の群集を押しのけてやって来たが、キテオンに長い時間は必要なかった。到着した衛兵達が見たのは、血まみれの顔に血まみれの拳で、リストス配下の最後の一人を拳で打ちのめすキテオンだった。
十三歳の少年は衛兵達が自分へと向かってくるのを見て、床に倒れこんだ。消耗し、力尽き、だがすっかり満足した様子で。
キテオンは看守の前に立っていた。両手首を鉄で拘束されていたが、その顔には満足そうな笑みが広げられていた。ヒクサスが手を振ると、この年若い囚人を連れてきた二人の衛兵は背を向けてキテオンと看守を残して去った。
アート:Chris Rallis |
ヒクサスは様々な報告書が散乱する木製の机に何気ない様子でもたれかかっていた。その看守は幅広の肩に、熟練の兵士の胸当てを簡易にまとっていた。彼はキテオンの顔を観察するようにじっと見た。少しして彼はその指を濃い灰色の髭に走らせ、口を開いた。「君はここに来てまだ二日も経ってないのか」 彼は深いため息をついた。「二日で十年分の刑期を追加だ。水仕事で暴力を振るい、囚人七人を医務室送りにし、そして暴動......全て君が原因だ」
キテオンの耳に、それは業績を読み上げられたように届いた。
「ああ、そうだ」 ヒクサスは付け加えた。「更に君は昨日、ここに移送される途中に脱走を企てたと聞いている」
「俺を罰するのか?」
「他に誰がいる?」
キテオンは答えなかった。
「私の個人的な好奇心で尋ねるが」 看守は続けた。「脱走が上手くいったとして、もし再び捕えられたら一体どうなるのか、恐れなかったのか?」
「それくらいわかるよ。でもあんただって外国人居住地で長い時間は過ごせないだろ? そこまで帰り着けば、不正規軍が俺をかくまってくれる。あんたが俺にまた会うことはないよ」
次は看守が微笑む番だった。「ああ、不正規軍。居住地の守り手だな。キテオンの不正規軍」
アート:Mark Winters |
「そうさ」
「とても義理堅い賛同者達だ。そして彼らの多くがここで時を過ごして終わる。君の友人、ここにいるドラサスは不正規軍の現在の代表者だ、そうではないかね? 今や君も同様だ。知っての通り、ここではとても多くの囚人が争う。そして更に君と君の不正規軍はまだ更なる敵を作りたがっているように思える」
「リストスか?」 キテオンは笑い出さずにはいられなかった。「母さんは言ってたよ、あいつみたいな奴は弱虫だって。他の奴らにどう見られてるかで強さが決まるような奴は。『強さはその行動が示すもの』、母さんはそう言ってた。リストスは弱虫だ。俺はすぐにわかったし、ここの全員ももう知ってることだ」
看守は含み笑いをした。「そうだな。その場合、彼が部下と共に医務室にいると聞いても君は驚かないだろうな」
「あいつには触ってもいねえよ」
「だが君が言った通りだ。他の囚人達の前で一人の子供が部下を叩きのめした瞬間、彼の強さは消えてしまった。そして彼は安全を求めて逃げた。昨晩君が拘禁されていた時、暴動が起こった――君を気にかけたドラサスが起こしたものだ。それはリストスの手に余り、彼はそれを思い知った。誰もが君のように、攻撃をものともしないわけではない」
「自業自得ってやつさ」
「そうだろうな。彼は乱暴な男だ。それだけは真実だ。とはいえその見た目を超えた所に価値が存在するものだ。彼は悪人ではあるが、秩序を保つ助けになっていた」 看守は手を掲げた。「さて、私は何をすべきか?」
「あんたの仕事をどうやるかなんて知らねえよ、看守さん」
「ああ、君は知らない。だが君は私の力になれるかもしれない。君は我が次のリストスかね?」
「俺はリストスよりも上だ」
「そうか? ならば 証明してみせろ」
「証明? あいつは医務室にいるし、俺はかすり傷程度だ」
「ではどうする? 彼の地位を奪うつもりかね? 彼に取って代わることは君を何ら良くはしない。君を、彼と同じにするだけだ」
「わかんねえよ。俺はここに長くいるつもりはない」
キテオンが驚くほどの素早い動作で、ヒクサスはベルトに下げられた重い鍵束を取り外すと、それを机の上に落とした。鉄が木の上で音を立て、ヒクサスはその音が静まる前にダガーを手にした。キテオンは一歩後ずさり、両の拳を防御に掲げ、そして狂乱するように波打つ光がその身体に弾けた。
「君を脅かしているのではない」 ヒクサスが言った。「皆の話によると、物理的に君を傷つけようとすることは効果がなさそうだ」 彼はダガーを器用に弾いて刃を握り、柄をキテオンへと差し出した。「受け取りなさい」
キテオンは一瞬だけ躊躇した。彼の指が柄に触れ、それを掴んだ。
「君へと自由を提供しよう」 看守は言った。「君は、鍵を奪うだけでいい。そうすれば逃走できる」
「あんたはそのまま俺を出してくれるのか?」
「いや。鍵のために君は私を殺さねばならない。そして君の戦いの技能が噂通りならば、私の勝機は多くないだろう」
矜持がキテオンの内に高まった。彼は常に戦いを好んでいた。戦いに長けていた。
キテオンはしばしの間、ダガーの剣先と凝視を逸らすことなく看守へと向けていた。
「あんたを殺す気はない」 そしてキテオンは言った。彼は腕を脇に下ろし、ダガーはそのまま床で音を立てた。
「君は殺人者ではないからな。君はリストスではない」
「悪かったね、あんたを失望させて」
「いや、それどころか私はこの結果に勇気づけられている。これこそ私が望んでいたものだ。真実だと信じていたものだ。君は盗人として、窃盗の罪で捕えられてここにいる。だが君が盗んだのは食べ物だ、君の友人とその家族を養うために。君は、君が正しいと思う事をしている」
キテオンは両足首の間に下がる鎖へと視線を落とした。「俺をどうしたいんだよ?」
「囚人のほとんどに私が望むのは、静寂と服従だ。君に望むものは何か? 君には私の提案を受け入れることを望む。キテオン、君を訓練したい」
キテオンは訓練に同意したわけではなかったが、彼の抵抗は大部分が無視された。彼は翌朝夜明け前に叩き起こされ、牢獄の簡素な運動場へと引っ張り出された。それは高い壁に囲まれた、土が詰められた円形の一区画だった。ヒクサスはその闘技場にも似た円の中央に立っていた。彼は地面へと鍵束を放り投げた。
「今もあんたを殺す気はねえよ」 キテオンは言った。
「私もそう願う」 看守は言った。「奪いに来い」 彼の口の端が得意そうに歪められた。「成功したならそれは君のものだ」
キテオンは突撃した。
数時間後、キテオンは声高に不平をわめいていた。彼は前に進めなかった。彼の突進は常に、地面から弾け出て四肢を束縛する、鮮やかな白色に輝くエネルギーの鎖に中断された。もしくは輝く魔法の鞭に脚を突かれて歩調を崩し、泥へとよろめいて倒された。全く進歩はなかった。鍵は彼の手からはるか遠くにあり、そして無益な努力の度にそれは更に遠ざかるのだった。
アート:Chris Rallis |
そして言葉も無しに、ヒクサスは鍵を拾い上げて運動場を去った。キテオンは憤慨と遺恨に満たされて泥に膝をついた。
続く日々も初日とほぼ同じように過ぎた。ヒクサスは鍵を提示し、キテオンはそれらを回収しようとするも失敗し、ヒクサスは鍵を持って去り、キテオンはその残酷な遊戯に煮えくり返る。
ひどい嵐が過ぎた後の曇天の朝、運動場の地面は泥のぬかるみと化しており、キテオンは立ち上がろうともがいていた。これで百度目にも感じられるように思えた。体力が尽き、彼は背中から泥の中へと倒れた。
目を血走らせて、彼は看守へと声を上げた。「できねえよ!」
「それは何故だ? 君の勇気が足りないのか?」
キテオンは顔をそむけた。
ヒクサスは続けた。「君の強さが足りないのか? それとも素早さか?」
看守はキテオンに迫るように立ち、見下ろしていた。少年は涙と屈辱に満ちた目で睨み返した。
「俺じゃない! それはあんただ! あんたは俺に近づかせてもくれない」 キテオンは言った。
その時、ヒクサスは彼の傍、泥にひざまずいた。「さあ、理解する時が来た」
それは神聖術の「法魔術」と一般に呼ばれているものだった。だがそれは単純すぎる表現だとヒクサスは言った。「法は人によって創造されるもの。そして法は変化しうるが、法とは特定の行動を受けて創造されるものだ。ある者が盗みを行えば、法は更なる窃盗を防ぐべく制定される。神聖術の実践はここから始まる」
「あらゆる行動に、それに逆らう反応がある」 ヒクサスは続けた。「神聖術の達人は、いかなる展開からも勝機を見い出すことができるのだよ。そして、それを自身の優位に変えることができる。どのような競技においても、勝利というものは状況を支配した者の手へと収まるものだ」
逃走を片手ほどの回数試みた後、キテオンは訓練を受け入れた。それは戦闘において他者の動きをその体勢と身振りから直観的に読み取り、相手が次にどう動くかを瞬時に理解する彼の天性の才能を刺激した。神聖術はキテオンへと敵を攪乱し、優位性を確かなものとする手段を与えた。
毎朝、弟子キテオンは夜明け前に起き出して運動場でヒクサスの下で学んだ。毎昼、囚人キテオンは手首を拘束する鉄枷を代えられてアクロスの滝で他の囚人に合流した。彼は両方の活動から恩恵を得た。神聖術は彼の心を、巨大な車軸を回すことは肉体を鍛えた。
アート:Chris Rallis |
彼はその律動的な日課に馴染み、そして四年に渡って日々の達成を積み重ねていった。ある朝、その律動が妨げられるまで。
貫くような鋭い金切り声にキテオンの両目が突然開かれた。彼は緊張しつつ身を起こした。いつもより遅い、と彼にはわかった。衛兵はどこに消えた?
更なる金切り声が聞こえた。それは恐ろしい合唱のように一つに集まり、次第に大きくなっていった。
ハーピー。どうやって知ったかはともかく、彼は知っていた。遭遇したことはなかったが、キテオンは物語でそれを知っていた――死肉を食らい子供をさらう、翼を持つ怪物。
彼は跳び起きると背を伸ばして窓の外を見た。ハーピー達が川上から接近してきていた。彼女らの容赦のない金切り声に鐘の重い響きが応えた。アクロスの強大な要塞コロフォンの城壁内、位置につけと兵士を呼ぶ音だった。頭上の狂乱と恐慌は、警告を届けるストラティアンやオロマイの乗り手はいなかったことを意味していた。
まるで腐敗した死体に蠅が群がるように、ハーピーの群れが要塞へと降下した。キテオンはそれを狭い隙間窓から見守った。とめどない数に、彼は羽根と鉤爪と飢えの黒い雲から視線をそらせなかった。
ひどい騒音の中、キテオンは独房の扉が叩かれる音を聞いた。扉の格子窓からヒクサスの顔が見えた。
「都市が攻撃されている」 ヒクサスが言った。
「ハーピーが」
「今までにない数だ」
かんぬきが音を立て、扉が勢いよく開かれた。看守の身体が入口を塞いでいた。彼は完全装備だった――青銅の胸当てに揃いのすね当て、そして頂点が金属で飾られた兜。彼は抜き身の剣を片手に握りしめ、もう片手でずた袋を持ちそれを肩にかけていた。
「自由になりたいか?」 ヒクサスはそう言って袋をキテオンの足元に向けて投げた。
キテオンは片方の眉を吊り上げた。彼は屈んで袋へと手を伸ばし、手元へと引き寄せると掴んでいたのは鞘に入ったアクロスの剣の柄だった。袋の中には歩兵の装備が揃っていた。胸当て、すね当て、そして円盾。キテオンは不敵に笑った。
それから少しして、キテオンは武装を固め、洞窟のような牢獄の洞窟のような水道設備、半分弱の囚人が集う中にいた。看守ヒクサスが煉瓦の山の上に立ち、集まった罪人たちへと呼びかけた。
「皆知っての通り、ハーピーの群れがあらゆる斥候よりも早く都市を攻撃している。何故かはわからないが、それは問題ではない。私は独房を開き、都市を守るために戦うという者たちへ自由を与えるようにと命令を受けた。君達は自らの意思でここにいる。かつて何があったかは関係ない。アクロスは君たちの都市国家だ。今日の行いが未来を形作り、そして君達の居場所もその中にある。もし戦いの中で死ぬなら、それは英雄の列に加わるということだ。掴み取れ!」
囚人兵の先頭で、キテオンとヒクサスは英雄の門から闘技場の輝く砂へと駆け出した。彼らが近づくと、ハーピー達が新鮮な肉とみて手近に襲いかかったアクロス衛兵の屍から空中へと退散した。
多すぎる、キテオンは思った。
翼の怪物は都市国家の上空を旋回し、渦を巻き、貪欲な一つの塊となり......そして囚人達へと飛びかかってきた。
囚人達は散開し、可能な者は受け流した。一体のハーピーがキテオンへと飛びかかってきたが、彼はかろうじて盾を掲げてその重さを逸らした。ハーピーは鉤爪で盾の端を掴んだが、キテオンは体重をかけ、盾の下にその怪物を押さえつけることに成功した。その黒い瞳は人間のそれと変わらないように見えたが、がさがさの唇を開くと、人間の肉を貫くためにある尖った歯があった。そのハーピーは金切り声を上げ、身をよじって離れようとしたが、キテオンがその剣で首筋を切り裂くと沈黙した。
刃を引くよりも早く、もう一体のハーピーがキテオンの背中に激突した。鉤爪が左腕の筋肉へと深く突き刺さった。キテオンは歯を食いしばり、右に転がってその新たな襲撃者から離れると盾を振り回してハーピーの肋骨を受け止め、跳ね返した。
彼は反撃に備えた。
そのハーピーは腕を支えにして身体を低くしつつ、キテオンを旋回した。キテオンも合わせて動いた。ハーピーは背を伸ばして立ち、その黒い翼を持ち上げ、金切り声を上げた。
そこにキテオンが突進した。
その攻撃を避けるべく翼を下方へ羽ばたかせ、ハーピーは宙へと跳び上がった。その間にもう一体のハーピーがキテオンへと突進した。ハーピーとアクロス兵は闘技場の砂の上に転がった。
更なるハーピー達がキテオンへと降下してきた。肉をついばみ骨だけにすべく、びっしりと並んだ歯が彼の上腕へと差し込まれた。
キテオンは苦痛に声を上げたが、その声を咆哮へと変えた。彼は自身の肉に噛みついているハーピーを両腕で抱え、拘束した。それで他のハーピーを防ぎながら、彼は転がって離れた。彼はそのハーピーを脇に押しやるとすぐさま立ち上がった。一瞬だけ時間を得た。
そのハーピーが我に返るよりも早く、キテオンは地面から力を呼び起こした。一組の鮮やかな白色の鎖がその怪物を束縛した。
アート:Igor Kieryluk |
あらゆる方向から更なる敵が襲いかかってきた。周囲全てが黒い羽根でぼやけた。聞こえてくるのは、ハーピー達の鋭い金切り声だけだった。
闘技場の上空に突然、白いエネルギーが爆発して同心円状の波が放たれた。それはハーピーの大群を通過していった。彼女らは不規則に飛び始め、互いに衝突し合った。
ヒクサス。キテオンは師の姿を闘技場中央、イロアス神の柱の根本に認めた。エネルギーを空へ送りながら、師の瞳は熱烈な白色に輝いていた。
まごついたハーピー達が砂へと落下し、キテオンは力を呼び起こして輝く白い鎖でそれらを束縛した。
「それは長くはもたんぞ」 ヒクサスの声が轟いた。魔術が吹き込まれたその声と言葉はハーピーを超えて届いた。「真中の柱に整列しろ。背中をつけて、盾を合わせろ!」
キテオンは剣を拾い上げてヒクサスの元へと急いだ。そこでは既に、生き残った囚人達が柱の周囲に輪を成して並んでいた。彼らは盾を構え、剣と槍を突き出していた。敵の大群に立ち向かう凱旋の神殿内の密集軍は、そのすべてがひとつになった。
多くのハーピーが落ち、多くが逃げ出した。
キテオンは敬礼するように剣を掲げた。「砕かれし鎖の歩兵隊よ!」 彼は高らかに宣言した。そして一揃いに上がる咆哮が応えた。
だがその一瞬の休止は始まった時と同じように素早く去った。「サイクロプスだ!」 コロフォンの城壁から叫びが上がった。
「まだいるぞ!」 続いて声が聞こえた。
「こっちもだ!」
キテオンはヒクサスを見た。「看守、城壁に!」
闘技場の上空に、ハーピー達が再び集まっていた。何体もが更に簡単な獲物を求めて城壁へと飛んでいった。
「もしハーピーどもが衛兵を捕えたなら、守りは失われる」 看守は言った。「そうなれば恐らく、少なくないサイクロプスの攻撃には役立たずになるだろう」
「不正規軍と一緒に行かせてくれ。もし俺達からハーピーを留めておいてくれれば、俺達はサイクロプスを城壁の外に留める」
キテオンはヒクサスの視線の重みを感じた。彼はそれを受け止めた。このあらゆる只中にも関わらず、訓戒が来ることを予期した。だが師はただ頷いた。
少しして、キテオンは都市国家を囲む城壁の最上部に沿って駆けていた。凱旋の神殿へと集まるハーピー達が通り過ぎていった。彼女らの行き先へ顔を向けると、彼は鮮やかな白い螺旋が空へと延びるのを見た。何本もの輝く脈動が糸となってうねり、キテオンは理解した。
ハーピー達はその源へと引き寄せられ、再び凱旋の神殿へと集まっていた。看守と他の兵がどれほどもつかはわからなかった、だがサイクロプスと戦うために彼らが十分な時間を稼いでくれない限り、都市国家は敗北するだろう。
彼は全速力で駆け、サイクロプスと戦う兵士の一団と数度すれ違った。壁を叩く一撃一撃が都市国家に響き渡り、大理石と岩にこだました。
ようやく、彼は外国人居住区へと到着した。そこでは内側に向いた古い壁が、都市国家の元々の境界を記していた。その壁は外国人居住区を囲むように延びていたが、高くはなく、この場所のように手に負えないものでもなかった。彼の立つ場所から、三体の鈍重そうなサイクロプスが壁に向かっているのが見えた。放っておいたなら、奴らは壁を打ち倒してしまうだろう。
その古い壁から、キテオンは石の本道へと飛び降りた。それは壁の内側に据え付けられた高い歩道で、居住区を囲むように伸びる近道となっていた。走っているうちに、居住区の馴染みある鋭い匂いが彼を迎えた。彼の下にはよく知り愛着のあった街路が、アクロス衛兵に連れ出されて以来目にしていなかった路地があった。彼はここを四年の間留守にしていた。攻撃が来た時も。だが今彼はここに、故郷にいた。
キテオンは石の本道を辿り、アクロス人でない者が最初に都市国家へと入る場所である居住区の要塞のような門番小屋を目指した。近づくと、彼は一人の男が門を補強すべく、巨大な梁を持つ人々を誘導しているのを見た。キテオンは大きく声をあげて笑った。その男を知っていた。不正規軍の一員ゼノン。いつも、ありとあらゆる競争事に賭けを主張していたセテッサ人。その髪は長く伸び、だがアクロスに来た時にあの森の国から持ち込んだ同じ緑の外套をまとっていた。キテオンは友の名を呼んだ。
「囚人が解放されたって本当だったのかよ」 ゼノンは言った。
「俺がまだ生きてる方にどれほど賭けてた?」
「お前が生きてることに賭けたなんて誰が言ったよ? ま、今は取り立てしてる場合じゃねえよな」 彼は歯を見せて残酷そうに笑った。キテオンが知っていた頃の彼とは違うものだった。「というわけで、ちょうどお前が通りかかった所で、サイクロプスがちょっとばかり街に入ってこようとしてる。手を貸してくれねえ?」
キテオンは道へと降り、その梁を運ぶのを手伝った。彼らの背後の壁はサイクロプスがその体重をぶつける度に轟き、うめいた。
「崩れるぞ!」 ゼノンが叫んだ。
キテオンは友人へと向いて言った。「じゃあ、門を開けろ」
「は?」 ゼノンは彼を見た。
「俺を信じろ」 キテオンはそう言って門へと駆けた。彼はゼノンの躊躇を理解した。ほんの数年前なら、彼自身も同じ困惑の表情をしていただろう。それとも然程考えることもなく、きしむ壁へと駆けていただろうか。だが、今はその数年前ではない。適応しろ、状況を自分の優位に変えろ、勝利を掴め。
キテオンは大胆に、門を固く閉ざしている梁の一本へと体重をかけた。
軸の力に蝶番が屈し、木製の巨大な門がうめいた。その音が気付かれない筈はなかった。キテオンが望んだ通りにサイクロプスはその注意を壁から門へと向け、急ぎ向かってきた。キテオンと不正規軍の数人は門をくぐり舗装路へと走った。
「閉じろ!」 門番小屋でドラサスが兵士達へと声を上げた。
門が軋みながら閉じ始める中、最初のサイクロプスが舗装路を突進してきた。その怪物は生々しい怒りと容赦のない飢えそのもので、その一つ目は不正規軍の背後の門に定められていた。走りながら、不釣合いなほどに巨大な口はあぶくを立て、四方八方に唾液の泡をまき散らしていた。人間など一呑みにしてしまえる口だった。
アート:Raymond Swanland |
不正規軍はその突進を受け止めるべく隊列を形成し、槍を構えた。キテオンはその編隊の先頭にいた。その邪魔者どもを逆手打ちにしようとサイクロプスが巨大な片腕を振り上げた瞬間、キテオンは魔術で作り上げられた長い鎖を地面から呼び起こし、怪物の両手首を拘束した。
「不正規軍、構え!」 キテオンは言った。
サイクロプスはその手かせに抗ったが、更なる鎖が続いた。怪物は怒り狂い、鎖を解こうとして前によろめいた。キテオンがそこで呪文を止めると、怪物はそのままの勢いで防衛者達へとふらつき倒れた。不正規軍は上からの体重を、何本もの槍で受け止めた。サイクロプス苦痛の呻き声を上げ、だがそれは喉から泡を立てて上がる血のゴボゴボとした音にかき消え、そして怪物はキテオンと不正規軍との間の舗装路へと倒れた。
キテオンが仲間に合流するよりも早く、二体目のサイクロプスが彼に迫った。セテッサのゼノンがキテオンへと槍を投げ、彼はサイクロプスの攻撃範囲から横に一歩避けながら素早くそれを受け取った。キテオンは旋回し、足を踏みしめ、その槍を怪物の脚の側面に突き立てた。槍先は筋肉を裂き、貫いて出た。
そのサイクロプスはキテオンを叩き倒そうとした。彼は片足を軸に旋回し、避けながらもう片足を振り回し、それは槍の柄をとらえてサイクロプスの膝に直撃した。
キテオンは剣をその喉に突き立てた。
アート:Adam Paquette |
キテオンはアクロスに聳える山々の頂上に太陽が顔を出すのを見ていた。彼は登坂をしばし中断してその陽光に顔をさらした。
ドラサスは急ぎ、キテオンに追いついた。「何をしてる?」
キテオンは眼下のアクロスを一瞥した。「あの牢獄はアクロスでも最後に太陽を見る場所だ、知ってたか?」
「へえ、そうかよ」
「そうさ。でも今日は、俺達が最初だ」 キテオンは言って、目を閉じて肺へと新鮮な空気を満たした。
「自分の力で勝ち取った、そう言えるな。見ろよ」 ドラサスは都市国家正門の前の舗装路を指さした。そこでは二十人以上のアクロス兵が、横たわるサイクロプスの屍に縄をかけて引いていた。更にもう二体のサイクロプスが命なく舗装路に横たわっていた。
「勝ち取った」 キテオンは頷いた。
二人の不正規軍は山登りを再開した。彼らは怪物の更なる襲撃が無いか、攻撃が終わっていない何らかの兆候が無いか周囲の地域を観察していた。
更に登りながら、キテオンとドラサスは分かれた。ドラサスは北を偵察しに、キテオンは南へと。
一時間以上、キテオンは山腹を上る石の小道を辿っていった。彼は登山に長けているわけではなかったが、その反射神経で歩調を保っていた。その小道はアクロスに聳える山々から曲がりくねって流れ下る深い峡谷の端へと続いていた。峡谷にかかる岩の端はどこか、人の手ではなく自然に、かつ最初から全てその姿で造られたように思えた。キテオンの視線がその橋を追うと、周囲の岩は影に覆われているにも関わらず、対岸は日の光に浸されていた。
キテオンは橋を渡った。
驚いたことに、一人の男性が向こう岸で待っていた。その男は屈強な体格で、流れるような黄金の衣服をまとっていた。豊かな黒髪が肩に流れ、その頭上には黄金の葉でできた冠が浮いていた。手に持つ槍の先は見事で繊細な黄金細工で飾られ、輝く光球に囲まれていた。その背後には巨大な大理石の像がそびえ、キテオンがその姿を認識できない程にあまりにも眩しく照らされていた。
「アクロスのキテオン・イオラよ」 その男性の声はあらゆる方向から響いてくるようだった。「お前の務めはまだ終わってはいない」
「その通りだよ、あんたが道を塞いでるんだから」 既にキテオンの皮膚の表面には白いエネルギーが波打っていた。「あんたは誰だ?」
その男性は槍先を地面へと下げると、光が揺れ動いて彫像の姿を露わにした。キテオンはその男性の、大理石製の複製を認めた。
アート:Raymond Swanland |
「ヘリオッド」 キテオンがはっきりと声に出せたのはその名だけだった。
「太陽の神」 ヘリオッドの声が轟いた。
その声に、キテオンは頭を下げた。
「お前は都市を守る務めを与えられた。怪物は悪意から襲いかかったが、遥かに大きな被害をもたらす前に退けられた。我が弟、死の国の神エレボスが、この山々の合間を潜みながら進む残酷な巨人を雇い入れた。彼奴の務めのため、その怪物はアクロスを通過しようとしている」
「務め? 何をしようと?」
「死の国から逃走した者を取り戻すことだ。その前に立ち塞がる存在はエレボスにとって何の意味も成さず、あらゆる生者が死の国へと行き着くことになると必然的に目にするのみ」
太陽の神は手を伸ばし、キテオンの肩に置いた。「お前は都市を攻撃され、戦士としての価値を示した。だが次は我が勇者となるべく自身の価値を示す時だ」 神は日の差す空へと手を伸ばし、そして光がその拳の周囲に凝集した。それは長く伸び、神自身の武器を模した槍の形を成した。
「この槍をもって、その巨人を倒すのだ。我がお前に課すのはそれだ。これはお前の試練だ」
キテオンは息を飲んだ。その槍と、神が与えた務めの両方に。
キテオンは全力で駆けていた。足の下で、ひび割れたむき出しの土が過ぎていった。彼の胸は上下し肺は燃えるように熱く、だが彼の両脚は動き続けた。もしキテオンに行く道があるなら、彼の両脚は前に広がる丘を越えさせ、吹きさらしの崩れた岩が並ぶ場所まで連れて行く。そしてそこに行けば彼は一人ではない。
重い足音が、彼が六歩進むごとに一歩ずつ、塵の雲を蹴り上げて彼の背後の地面を振るわせた。巨人を殺すのは簡単な仕事ではないが、キテオンはエレボスの下僕へはっきりと印象を与えた。キテオンは太陽が触れた槍先にまとわりついた、粘つく黒い血を一瞥した。そして危険を冒して肩越しに振り返ると、彼の視界はその巨人の姿に覆われていた。
アート:Peter Mohrbacher |
巨人がまとう鎧は膨大な数の、死の国から逃走した者の黄金の仮面でできていた。その時、仮面の虚ろな目が全てキテオンをまっすぐ見つめているように思えた。
一つの影が頭上にすっと現れた。キテオンはその巨人の重いフレイルが自身をめがけて流星のように落ちてくるのを見た。彼は転がって避け、それは彼のすぐ隣の地面に叩きつけられた。
キテオンは岩へと到着し、なおも走り続けた。崩壊した二本の柱の間を過ぎた時、巨人のフレイルは彼の左のそれを砕き、石の破片が弾けて降り注いだ。
キテオンは地面によろめき転がった。後頭部が温かく感じ、それに触れた手が血に濡れた。しくじった、キテオンは思った。何が来るかを見ろ。鎖の鳴る音がして、巨人がそのフレイルをもう一振りしていると彼に告げた。動き続けねばならなかった。
その巨人は低く轟く咆哮を上げ、口からは黴と腐肉の悪臭が放たれた。キテオンはその悪臭をこらえたが、口の中にしがみつくように残った。それはヘリオッドの勇者候補を踏み潰そうとする巨人の試みから彼を逃げ出させるに十分だった。
その巨人は逆手で殴りかかった。キテオンはそれを予期していた。無傷で、微動だにせず彼はその攻撃を受け止めた。防護魔法がその衝撃を吸収した。彼は巨人の並はずれて大きな指の一本を掴み、足を踏みしめ、その場に留めた。ただ一瞬だけがあれば良かった。
「今だ!」 キテオンは叫んだ。
鼓動一つ遅れて、ドラサスが別の岩柱を回って突撃してきた。「不正規軍!」 彼は声を上げた。「倒せ!」
三人の不正規軍が隠れ場所から現れてドラサスに加わった。彼らは粗い作りの組み合い鉤が先端に取り付けられた縄を持っていた。これぞ居住区のガキ大将だな、キテオンはその混乱の中で微笑みながら思った。
その中でも最年少のオレクソが巨人の分厚い上腕に縄を投げ、鉤がその青白い肉に沈んだ。他の者たちが彼に続き、巨人がキテオンを振り解いた瞬間、不正規軍はその縄を引いた。巨人は平衡を失ってよろめいた。怒り狂い、巨人は頭の周囲でフレイルを振り回した。その厄介者どもを除けてしまおうとしているのは明らかだった。
アート:Karl Kopinski |
あらゆる行動に、それに逆らう反応がある。その考えがキテオンの心を満たした。あらゆる行動に転換点がある。それを認識できれば、魔術のように役立て、戦いを支配できる。彼には打開策があった。
黒い鉄のフレイルが巨人の頭を旋回していた。キテオンは神聖の魔術から希薄なエネルギーの楔を引き出すと巨人の肘の内側を狙って打ち、その腕の間接を曲げた。フレイルの頭部の重量が巨人の肩へと弧を描いて向かい、その背中に衝突した。膝をつき、巨人は苦悶と怒りに顔を上げて吼えた。
キテオンが必要としたのはそれだった。彼は柱の一本へと駆け上がり、槍を手に巨人へと飛び降りた。陽光がその槍先をとらえ、近づく彼の姿を眩しく覆い隠した。蘇りし者の仮面を割りながら、彼はその槍を胸へと深く沈めた。どす黒い血が槍へと湧き上がり、そして巨人はもう一つだけ震える息を吐くと、塵を舞い上げて崩れ落ちた。
キテオンは倒れた巨人から降りた。試練は終わった、彼はそう思った。ヘリオッドの務めは果たされた。アクロスは守られた。
彼は槍を引き抜き、不正規軍へと振り向いた。そこに彼らはいた、外国人居住区の小僧の群れが。共に、彼らは居住区の犯罪王の締め付けを破り、アクロスを蹂躙する怪物から守り、神のために働く巨人を倒した、別の神のために。彼らは仲間であり、家族であり、太陽神の試練を受ける意義だった。一人でも、彼は強く熟達している。だが不正規軍と共にいれば、神々の諍いですら物の数でもない。
キテオンは視界の端で地平線が動くのを見た。目をこらすと、空へと煙の束が二つ上がっているのを、そしてその源、暗い瞳の一揃いを見た。死の神エレボスが風景に不気味に聳え、下僕の敗北を見ていた。汚すような、黒い蒸気がその神の暗黒の瞳から無感情の顔の上に広がっていた。
キテオンは槍を背後に構えた。彼は太陽の神、ヘリオッドの勇者。もしエレボスがこの揉め事全ての原因ならば、それに応えるべきだろう。キテオンは槍を放った。手放した槍には力を感じた、そして槍は空を切って死の神へと向かっていった。
無感情に、エレボスはやつれた拳を一つ単純に振るった。地平線からその鞭が放たれ、命を得たように現れた。それが飛び続ける勇者の槍に当たると、エレボスは再び拳を動かした。鞭がうなり、目にもとまらぬ速さで槍をキテオンへと向けて跳ね返した。
キテオンは勇敢にもその反撃に立ち向かうべく立った、そして不正規軍は彼の周囲に集まった。光の筋が彼の皮膚に生き生きと閃き、そして彼は限界まで魔術と体力を呼び起こし、その武器の先端が近づくのを見守った。
槍が彼に衝突し、過酷な光を弾けさせた。それはキテオンを洗い流し、全てを白く変えた。
その光は少しの間居残って消えた。キテオンは視界を取り戻すまで一瞬を要した。耳鳴りがして、集中するのは困難だった。
彼の周囲にゆっくりと色が戻ってきた。槍が当たったと思われる場所を見下ろした。傷はない、だが赤い斑点に気が付いた。彼はそれを拭おうと手を動かし、そして手の甲にもまた赤が跳ねているのを見た――両手が。だがそれは彼自身の血ではなく......
アート:Winona Nelson |
そんな。
彼は周囲を見た。
彼の目が四体の倒れ伏した身体を通過した。
そんな。
地面が持ち上がり、キテオンは体勢を保とうともがいた。彼は恐怖に口を開いたまま斃れた不正規軍の間によろめいた。彼の思考は、自身の手で放たれた槍へと戻った。
拳を固く握りしめ、キテオンは震え始めた。彼の魔術が今一度力を得て弾け、そして光の帯が速度を増しながら身体を走った。彼の皮膚は増し続ける激しさに波打つ光の弧を放った。頭上の空が回転した。
白い光が彼から放たれ続け、周囲の風景が揺らぎ始め、曲がり、伸びた。
そこから、緩やかな平原が現れた。
そして薄明りの空は冴えわたる青色になった。
もはや何もわからなかった。まるで世界の全てが終わりを迎えたかのようだった。
目を血走らせ、苦悶に顔を歪め、キテオンは鮮やかな太陽が輝く空へと視線を向けた。彼は目を閉じ、どうすることもできずその場にひざまずいた。
時が過ぎた。どれ程かを測る手段はなかった。絶え間ない、鈍い痛みが彼の内にかじかんでいた。
首筋の毛が立ちあがった。見られてる、彼は思った。エレボス? ヘリオッド? 構わない。そうさせておこう。
そして彼は低く轟く唸り声とともに、生温かい空気の波を感じた。目をはっと見開くと、巨大な影のような塊が太陽を遮り、視界を満たしていた。
顔。
光に彼の瞳孔が適応した。
ライオンの顔。
キテオンはそれがわかると後ずさり、身体を守るべく両腕を構えた。そのライオンは動かず、そして一瞬後、キテオンは腕を下ろした。そのライオンは軍馬のように鎧をまとい、鞍の上には鎧に包まれた乗り手がいるのが見えた。その鎧はキテオンが知る何にも似ておらず、乗り手を頭からつま先まで多い、太陽の光を受けて眩しくぎらついていた。
アート:Anastasia Ovchinnikova |
乾いた喉で、キテオンは口から言葉を絞り出した。「ここは? あんたは?」
「私はムーキル、巡礼の道の騎士長だ。君はここ、バントのヴァレロン国で迷ったようだ。体調がすぐれないようだな」 その騎士が喋る中、キテオンは彼女が一人でないことに気付いた。片手ほどの騎士がその隊長の背後に並んでいた。「放浪者よ、名前はなんと言う?」
「キテオン」 彼は息を詰まらせて言った。
「ギデオン?」 ムーキルは確認しようとした。
彼がその騎士を正すよりも早く、キテオンは突然自身の内に湧きあがった静穏の波に打ち負かされた。彼の目は空へと引き寄せられた。
騎士たちの向こうで、白い羽根の二枚の翼で浮かぶ、一人の女性が空から降りてくるのが見えた。その崇高さは見るものを鎮め、同時に鼓舞するようでもあった。彼女は彼の目の前の宙に降りてきた。その騎士たちのように板金鎧をまとう天使が。
その瞬間、キテオンは知った。彼はテーロスを、故郷を後にしたのだと。不正規軍は死んだ――彼が持ってきたものは、その苦痛だった。彼の試練は始まったばかりだった。
アート:Willian Murai |
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