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Magic Story -未踏世界の物語-
龍たちのタルキール
龍たちのタルキール
Kimberly J. Kreines / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2015年2月25日
プレインズウォーカーにして龍魔道士サルカン・ヴォルは彼の時代のタルキールを去って千二百年以上前の過去へと旅をし、精霊龍ウギンを死から救った。ウギンを救ったことにより、サルカンは龍の嵐がタルキール世界を繁栄させ続けることを確かにした。また、それによって龍たちを救った――もしくはそう望んだ。倒れたウギンを包むように、魔法的な守護を持つ面晶体の繭を創造した後、サルカンは時を裂いて現在へと戻された。今や、彼は疑問とともに残されている。彼の行動が起こした変化はどれほどなのか。タルキールの歴史に、どれほど多くのさざ波が立ったのだろうか? そしてこの新たな世界を誰と共有するのだろうか? タルキールの龍たちの中、栄光に浸るのは誰なのだろうか?
サルカン・ヴォルは故郷へと向かっていた。
そうだ。無限の久遠を運ばれながら、彼は完全な確信とともにそれを感じていた。彼に時を遡らせた何らかの力が、今や彼を戻そうとしている――どこへ? 未来か? 現在か? 今か? どう呼ぶかは問題ではなかった。それは故郷だった。
時が彼を通り過ぎていった。数えきれない年月を、計り知れない世紀を、タルキールの歴史は心臓の鼓動一つのうちに彼を裂き、そして去っていった。
足元に固い地面が現れ、世界が周囲に姿を成し、サルカンは今、この新たなタルキールの空気を初めて呼吸した。肺の奥深くまでそれは満ちた。
彼は面晶体の繭の前に立っていた、ほんの一瞬前に――いや、何百年、もしかしたら何千年も前に――立っていたそのままの場所に。鈍い人物だったなら、時の連環を理解していなかったなら、彼はここを動きすらしなかったと思ったかもしれない。一度眩暈を起こしたか、単によろめいただけだと推測したかもしれない。だがそうであったとしても、時の力と歴史の流れに同調していなくとも、繭そのものが数えきれない年月を経たと語っていた。見逃すはずもなかった。
《精霊龍のるつぼ》 アート:Jung Park |
面晶体の側面を氷が覆い、先端や縁からは氷柱が下がっていた。瓦礫の中には雪が溜まり、岩の露出した部分には溝やひび割れがあり、時によって摩耗していた。証拠はそこかしこにあり、真実は避けようもなかった。時と歴史はサルカンの瞬き一つの間に訪れ、過ぎ去ったのだ。
「ウギン」 サルカンは精霊龍の名を呼んだ。彼の声は震えていた、この新たな歴史の信憑性を確かめるように。「俺だ、ウギン。俺はここにいる」 彼は震える指を繭へと伸ばした。
少しの間、風鳴りだけがその答えだった。
そして頭上から、轟く声が響いた。
サルカンは両眼を空へと向け、高揚感で胸がはち切れそうになった――龍の群れ! 頭上を、龍たちが旋回していた。
「どうだ!」 彼は叫んだ。「見ろ! あれを見ろ!」
彼が抱いた希望は間違っていなかった。それは起こったのだ。上手くいったのだ。ウギンを救った面晶体の欠片は、タルキールの龍たちをも救ったのだ。
涙がサルカンの目から溢れた。熱く、湿っていた。現実。これは現実だ。
「これを見ろ!」 サルカンはウギンへと呼びかけた。「俺はやったぞ! 時の連環は再編された!」
だが精霊龍は起きなかった。
構わない。自分はここにいる。彼は首をのけぞらせ、世界へと響き渡る大声で叫びを放った。そのこだまが彼へと返ってくると、それは咆哮となり、喉からの咆哮となり、龍の咆哮となった。そしてサルカン・ヴォルは龍の姿をとり、空へと飛び立った。
彼は高く、高く、高く、鼻先の皮膚が両眼へと押し戻されるほど素早く昇っていった。彼は向こう見ずに上空の龍たちの群れへと向かい、その分厚い表皮に打たれながらも周囲を縫うように飛び、そして彼女らの翼が起こした乱気流に揉まれた。
彼はその龍たちに見覚えがあった。枝角と幅広の肩。ヤソヴァと彼女の剣歯虎が攻撃していた群れのものだった――それはいつの事だ? 千年前か?
ヤソヴァ。頑健で、力強いヤソヴァ。彼女の行いは彼女の過ちではなかった。彼女は彼のように、ただ自分の役割を務めたのだ。彼は狂乱してはいない、彼女にも、誰にも、もはや狂乱していない。いや、全てがとても正しく思えた。頭は冴えわたり、思考は彼自身のものだった。そして彼のタルキールは龍に満ちている。
龍に!
アート:Steve Prescott |
サルカンは横の龍の一体を掴み、揺さぶって呼びかけたい衝動にかられた。「お前はここにいるんだ! 俺がそうさせたから、お前はこのタルキールにいるんだ!」 だが彼の龍の唇は言葉を成さず、そのため彼は隣の龍へと顔を向け、力一杯の声を轟かせた。
彼女の大きな目がサルカンを見て、瞬いた。
彼女は理解したのだろうか? 彼女はこの今がどれほど素晴らしいかを、驚異的かを、ありえないかを理解できたのだろうか?
彼は繰り返し声を上げながら、群れの中を稲妻のように進んだ。
彼のエネルギーは干し草の山に放たれた火花のように、周囲の龍たちに火をつけた。
彼らはサルカンの声に加わり、彼の咆哮へと耳をつんざく咆哮で応えた。吐き出しては吸い、それは熱と声量と速度を次第に増しながら、その群れの全ての龍を一掴みにして全てを飲み込む力へと成長し、一瞬にして一つの巨大な吐息が放たれた。彼らは一つとなって咆哮し、タルキール全土が震えた。
サルカンは彼を受け入れた群れとともに空を舞い、新たなタルキール世界へと見入った。見覚えがあるもの、知っているものも多かったが、それでも何もかもがとても異なっていた。遠くに別の群れが幾つか見えた。彼が共に飛ぶ群れと同じ枝角を持つものも、全く異なるものもあった。気流に乗って羽根のように軽く空を滑る、しなやかな龍たち。分厚い鎧のような鱗を持ち、遥か眼下に密集して飛ぶ龍たち。そしてサルカンは上空から垣間見るだけだったが、龍というよりは蛇のように振舞い、沼地の巨大寺院の中で過ごす龍たちもいた。
土地そのものもまた変化していた。かつてはそこかしこにあった廃墟や龍の骨の山は、今や平原と森だった。別の歴史にて、雪のツンドラは果てしない白色に覆われていたが、今は部分的に覆われているだけだった。広い範囲が焼け焦げた黒色をしていた。龍炎! サルカンは歓喜とともにらせんを描いて急降下し、焼けた藪の香りを鼻孔に満たした。この土地は変わった、龍がいることで!
アート:Titus Lunter |
群れへと再び視線を向けると、彼を迎えたのは他でもない、前方に荒れ狂う龍の嵐の光景だった。その中から、更なる龍が生まれ出た。
サルカンは狂喜の絶頂に咆哮を上げた。
群れは咆哮を返した。
そして新たに生まれた雛たちもその声に加わった。
素晴らしかった。
サルカンが求めた全てがあった。
彼はこのまま、ずっと生きていたいと思った。
何という世界! 何と言う時代! 何という完全。
だがサルカンの完全な時を突然の、不快な鐘の音が砕いた。
鋭い金属音が繰り返し鳴らされ、群れをナイフのように切り裂いた。龍たちは散り散りに乱れ、警告の叫びを発した。サルカンは鼻先と翼を打ちつけられ、逞しい脚に蹴りつけられた。
彼は龍たちの苦痛を感じ取っただけでなく自身でも感じた。とはいえ、ただの鐘が。彼は思った、ただの鐘が強大な龍たちの群れをこのように狂わすとは。
彼はその邪魔な音が発せられた方角を見下ろした。その地上、マルドゥの小規模な宿営地によく似たものの中央に、鐘を鳴らす人影があった。
ただの人間。それともオークか? そうだとしても、あのような取るに足らない生物がこの群れへと一体どのような脅威を見せるというのだろう?
彼の疑問への答えはすぐに出た。火山のマグマが噴き出すように、龍たちが奔流となって宿営地から弾け、空へと放たれた。
彼らは鐘の音に合わせて翼を羽ばたかせた――マルドゥのオークが鳴らしていた鐘に。不安を感じながらも、サルカンはこの光景にぞくりとした。龍と氏族員が同じ宿営地に生きている。龍と氏族員が共に生きている! それもまた、世界のあるべき姿だった。
だが彼は長いこと喜んではいられなかった。このマルドゥの群れの龍たちは、彼がまだ目にしていなかった五番目の種は、火矢の集中攻撃よりも速かった。
その攻撃は歳を経た強大な龍が率いていた。分厚い皮の襞が顔を囲み、鼻先から背中にかけて長い角がずらりと並んでいた。彼女は敏捷そのものの体現、引き締まった身体は機敏で翼は力強く......そして彼女はまっすぐにサルカンへと向かってきた。
アート:Jaime Jones |
その一瞬、時が止まった。サルカンはその巨龍の瞳へと見入った。彼は彼女の顔を認識した。鋭い鼻、切れ長の顎。それはとても馴染み深かった。だがそんな事がありえるだろうか? 彼は以前にこの龍を見たことはなかった。見ることなどできなかった。それでも......彼女をやぶにらみで見たサルカンの心へと、耳障りな鐘の音が一つのイメージを浮かび上がらせた。それはかつての歴史からの記憶だった。サルカンは鼓動一つほどの間に、二つのタルキールが、互いの内に入り込んでは覆い被さる様子を見た。彼へと放たれたものがあった。この今の歴史の、肉と血と鱗を持つ龍。そして永遠に失われた歴史の、空っぽで腐った頭蓋骨へと、カンの玉座へと成り下がった龍。それが、彼がこの龍を知っていた理由だった。
ああ、世界はこうして変わったのだ!
《タルキールの龍の玉座》 アート:Daarken |
一つの獰猛な咆哮があり、二つの歴史は一つに潰れた。サルカンは我に返り、かろうじて古の龍の進路から飛びのいた。彼女が群れを上空へと導く中、彼は降下した。彼は見逃され、無視されるほどに小さく、それはまたありがたいことだった。彼はその古代龍と戦う気はなかった。
サルカンは鼓動を高鳴らせ、心をざわつかせながら宿営地の端に着地すると人の姿をとった。彼は岩の露頭の下に、頭上の空で激突する二つの龍の群れからの隠れ場所を探した。彼女らの身体が戦いに激突する音の響きを聞きながら、彼は自身が真に成したことが現実となって見え始めた喜びに浸った。この龍たちは彼の行動があったからこそ、ここにいる。その最強の個体すらも、その存在はサルカン・ヴォルがあってこそ。彼がこのタルキールを成した。壮麗に成した。
「侵入者! 侵入者!」
サルカンはその声にはっとした。それは上でなく下から聞こえてきていた。
「侵入者だ! 攻撃!」 怒れるゴブリンが一体、彼の右の藪から飛び出してきた......サルカンの見覚えのあるゴブリンが。
「足首裂き?」
彼女はサルカンの記憶とは違う装いだった。マントを纏ってはおらず、刃ではなく一本の太い瓶を振り回していたが、それは彼女だった。間違いなく彼女だった! 彼女の姿を目にしてサルカンの心臓は跳ねた。この歴史に、彼の新たなタルキールに、生きている彼女の姿!
「足首裂き!」 サルカンは露頭の下から駆け出して両腕を広げ、そのため怒れるゴブリンは彼の抱擁へと飛び込む形になった。彼は喜びを抑えきれず、夢中で彼女を揺すった。「お前もいるんだな! 生きているんだな! 龍と同じように!」
「下ろせ! 狂人! 狂人! 下ろせ!!」
「お前を救ったのは龍だったか? そうだよな! それともこの歴史では、命の危険に遭ったことはないのか?」
「危険! 命の危険!」 足首裂きはサルカンへと唾を吐き、その熱い唾液が彼の頬を流れ落ちた。「狂人、殺す! 薬瓶砕きを放せ! この!」
「それはお前の名前か! ほう! 名前まで変わったというのか!」 サルカンの心は全てを理解しようと奮闘した。無数の変化、差異、詳細――「待て。俺を侵入者と言ったな? 俺を知らないのか?」
「侵入者!」 足首裂き、この歴史では薬瓶砕きという名の彼女は、彼に噛みついた。彼女はサルカンの手首に分厚く平らな歯を沈ませ、顎の力できしませた。
サルカンは彼女を投げ捨て、苦痛に叫びを上げた。だが彼の叫びは笑い声へと変わった、喜びの笑い声に。「前よりも強くなったな。強くなって、そして生きているとは!」
「お前うるさい! 狂ってる! 下がれ、さもないと薬瓶砕きが砕いてやる!」 薬瓶砕きは持っていた瓶を激しく振った。彼女の腕の毛が静電気を帯びて逆立った。
そしてその源は瓶の中の輝く液体だとサルカンは理解した。彼女が持っている瓶は――
「龍火」 サルカンは囁き声で言った。「龍がお前にそれを? 龍が氏族にその炎を? 完璧だ。何もかもが、こんなにも完璧とは!」
「砕きを食らえ!」 彼女は振りかぶった。
「待て!」 サルカンは言ったが、遅すぎた。
ゴブリンはその瓶を放った。
アート:Franz Vohwinkel |
それが地面で砕ける瞬間、サルカンは龍に変身して薬瓶砕きの前に飛び、翼を広げて彼女を包むように守った。
彼女の抗議はただちに静まり、サルカンは自身の下で彼女が震えるのを感じた。彼は彼女を見下ろしながら、人の姿へと戻った。
彼女は平伏し、彼の前で頭を下げた。「龍人さま」 彼女は顔を上げ、慌てて後ずさった。「砕かない。薬瓶砕き、龍人さま砕かない。薬瓶砕き、知らなかった。薬瓶砕き、謝る。痛いことしないで」 彼女は後ずさりながら、その目は辺りをきょろきょろと見ながら、逃げ道を探していた。
「こんな所で何をしている?」 低く轟くオークの声に二人は振り向いた。「龍火が閃いたのが見えたが、龍は全て空にいる筈だ。龍火を無駄にするなとあれほど――」 そのオークはサルカンを見て言葉を切った。
そしてサルカンも息を飲み、その名が喉まで出かかった。ズルゴ。
ズルゴは不満を隠さず言った。「そういうことか、薬瓶壊し。たった一人の侵入者に龍火を無駄使いするなどと。下手な言い訳はするな」
「砕き! 薬瓶砕き! 壊しじゃない! 鐘叩きのズルゴ、知ってるはず」 そのゴブリンは拳を丸めてうなった。「鐘叩きのズルゴ、悪いオーク。とても悪い」
「鐘叩き?」 サルカンはたじろいだ。「鐘叩きのズルゴ?」 彼はズルゴから薬瓶砕きへと視線を移し、そして再びズルゴを見た。「彼は――お前は、鐘叩き?」 彼は視線をズルゴの剣へと落とし、それが真実であることを知った。その刃は鈍く、戦いのためのものではなく、巨大な金属の鐘を鳴らすためのものだった。サルカンが上空から見たあの人影が、ズルゴだった。
「ほう!」 サルカンは叫んだ。
「野郎、俺を見て笑いやがったな?」
サルカンは髪に指を走らせ、一つに掴んだ。「だがお前は兜砕きだった、お前は――」
「砕いてない。彼、鐘叩き」 ゴブリンが割って入った。彼女は自身を指した。「砕くの、私」
サルカンは彼女を無視し、ズルゴの表情を観察した。「お前はかつて、マルドゥを率いていた」
「いいかげんにしろ!」 ズルゴは怒鳴った。「それ以上侮辱してみろ」
「マルドゥ、誰?」 薬瓶砕きが尋ねた。
「お前達の氏族だ。俺達の、戦士の氏族」 サルカンは言った。「今のカンは誰なんだ?」
「カン駄目! カン言うの駄目!」 ゴブリンは跳び上がってその手でサルカンの口を塞いだ。「龍王コラガン、カン言った者殺す」
「龍王」 サルカンは薬瓶砕きの熱い手越しに声を響かせた。彼女は今や彼の横にぶら下がっていた。「龍王がいて、カンがいないのか?」
「カン駄目!」 そのゴブリンは嘆願した。
「そいつから離れろ、薬瓶壊し」 ズルゴは吐き捨てるように言うと、ゴブリンをはたき落とした。「死にたいというのなら言わせておけ。去れ、異邦人。その言葉を空に向けて言ってみろ。コラガン自身に侮辱を浴びせてみろ」
アート:Jason Rainville |
サルカンの胃袋の端を、不安が引っ張った。「俺を、異邦人と言ったな」 彼は尋ねた。「ズルゴ、俺を知らないのか?」
「何で俺が卑しい流浪人を知っているというのだ?」
「俺は流浪人じゃない。俺は――何故思い出せない? 何故知らない? 俺はサルカン・ヴォルだ!」
「カン駄目、カン言うの駄目」 薬瓶砕きはその長い耳を塞いで頭を前後に動かした。
「ヴォル?」 ズルゴは笑った。「それは弱っちいアタルカの名か?」
「いや、俺の名だ」 サルカンの声は穏やかだった。「全く知らないのか?」 そのオークの表情に、彼を認識したような様子は何もなかった。こんなことがありうるのか? そう、物事は確かに違った、だがどれほど違うのか? 誰も彼を知らないのか? この時代に、サルカンが生まれることは可能だったのか? 新たな歴史を創造した時、彼の過去は失われたのか?
「ヴォルは惨めな者の惨めな名だ。ヴォルはすぐに死ぬ」
ズルゴの言葉は、とても離れた場所から聞こえてくるように思えた。サルカンの心は時の結び目を解きほぐし、彼の行いの関わり合いを理解することで精一杯だった。
サルカンは無意識に龍の姿をとり、ズルゴはその刃を掲げた。サルカンの思考は一瞬、そのオークの鈍く役立たずの刃へと向けられた。それは鐘叩きの刃だった。「だがお前は、かつてカンだった」 彼は変身しながらそう言った。この時は薬瓶砕きが叫ばなかったので、その言葉を心に思っただけだったのかもしれない。
サルカン・ヴォルが空へと飛び立つ中、オークとゴブリンは共に、麻痺したように言葉なく立ちつくしていた。
最初の山を越えた頃、ようやく遥か遠くからサルカンの耳へと鐘叩きのズルゴの響きが届いた。
タルキールの空へと身体を苦しく持ち上げながら、サルカンの思考は支離滅裂にもつれた。これは彼のタルキール、彼が成したタルキール。だが、誰も彼のことを知らないタルキール。
まるで、彼が存在しなかったように。彼の歴史は無いかのように。
胃袋が悶え、彼は一瞬この空で吐き気を感じたように思った。だが彼はそれを飲み込み、うるさく雑音を立てる思考を制御しようとした。
何か問題があるのか?
彼の存在が知られていないことは、本当に問題なのだろうか?
彼は今ここにいる、そうではないのか? そしてタルキールは完璧だ。重要なのはそこだった。
ここで彼を知る者が誰もいないとしても、彼自身の歴史が無かったとしても、タルキールは素晴らしい世界だ。彼がそう成したのだから。
龍たちは生き延びてきた――いや、繁栄してきた。氏族もまた。薬瓶砕きはその証拠だった。別の時歴史では死の運命を迎えた彼女が、ここでは生きていた。そこまで考えてサルカンは息を飲み、翼は羽ばたきを止めた。もし薬瓶砕きの運命が変わっているなら、ズルゴの運命が変わっているなら、そして龍王たちの運命もというなら、同じことは他の者にも同じく起こりうるだろう。同じこともまた......ナーセットに。
そうだ! ナーセット!
もちろんだ。それは明白だった。何故その考えに至らなかった? ズルゴはこの歴史でナーセットを殺すことはない。あの鈍い、役立たずの刃では。あの裂け目で彼らの道が交錯することは断じてない。彼女がサルカンをそこへ導くことはない。命を投げうつことは決してない。彼女はここにいる筈だ。生きている筈だ!
サルカンは無気力な降下から自身を引き上げた。
ナーセット! 彼はその名を地の果てまで届かせようと吼えた。
この世界、この驚異、この均衡、この完璧さをナーセットは知っている筈だ。彼女はそれを喜んでいる筈だ。そして、この世界を成したのは自分だと伝えよう。
サルカンは、ジェスカイの領土として知る地へ急いだ。異なる歴史において、ナーセットはその河川地帯全域のカンだった。だが今はカンではなく龍が統べているとサルカンは学んでいた。龍たちはこの今において、あらゆる地を統べているように思えた。そしてそれもまた、世界のあるべき姿に思えた。
オジュタイはしなやかで機敏な龍、崇敬を受ける大師として知られていた。サルカンは別の歴史にてジェスカイと呼ばれた者達からそう学んだ。オジュタイは全タルキールでも最古にして最も賢い存在であり、彼の信徒は彼を高く尊敬し、彼の啓発を求めていると。同様に、その龍もまた弟子達を尊重していると。彼は自身の知を弟子へと教え、互いに強く成長し、更に狡猾となるために眼識と知恵を共有するのだと。
サルカンはオジュタイの生徒について全てを知ったが、ナーセットはその中でも最高だった。彼女は頂点へと昇りつめたのだろう。そして勿論、彼は正しかった。彼はナーセットの名を追って高く、高く、かつてない程オジュタイの巣へと近づくまで高く昇った。その龍の座は一本の塔の頂上にあり、サルカンはそれを要塞だと記憶していたが、この歴史においては龍眼の聖域と呼ばれていた。
頂上へ近づくごとに、何もかもが更に正しく感じられた。彼女がいるに違いない場所。この地の頂上に、空に、龍とともに、ナーセットがいる。その想いに彼の内が奮起した。
アート:Florian de Gesincourt |
最上部の部屋に辿り着いた時、サルカンは当初そこは無人だと考えた。だが彼の目はわずかな動きをとらえた。浅い呼吸に上下する胸を。部屋の向こう側、彫像のように身動きせず、瞑想の姿勢をとる人影があった。彼女を抱きしめようとサルカンは部屋を駆けようとした所で、それがナーセットではないと気付いた。彼はただちに立ち止まった。「誰だ?」 その言葉は無意識に発せられた。
その人物は光へと顔を上げ、サルカンにもその人間の容貌が見えた。彼は一つの完璧な見本だった――龍たちによって鍛え上げられた人間、その全てを内包していた。力が彼から発せられていた。
「テイガムと申します。師を務めております」 その男の声は彼の頭部の皮膚のように滑らかだった。「そして貴方は知識と知恵を求めて来られた学徒ですね。旅人よ、長い道を来られましたか。龍眼の聖域へようこそ」
「ち――違う。俺は生徒ではない。彼女を探して来た。彼女はどこに?」 サルカンは今一度部屋を眺めたが、その清潔で開けた部屋に隠れる場所は無かった。「ここより高い場所は?」 彼は見上げた。
「高い場所?」 テイガム師は含み笑いをもらした。「オジュタイ様御自身の座よりも、高い場所などありませんよ」
「ならば、ナーセットはどこに?」
テイガム師の両眼がわずかに開かれ、そしてゆっくりと閉じられた。そして落ち着いたように見えたが、更に長い間そのままでいた。
サルカンの興奮は疑問へ、そして心配へと変わった。彼は自分を抑えられなくなるまで待った。「彼女を知っているのか? ナーセットを? 彼女を見つけたいんだ。わかってくれる筈だ、彼女は何もかもわかってくれる筈なんだ」
テイガム師の目が閉じたときよりも更にゆっくりと開かれた。彼はサルカンと目を合わせるかのように、頭をごくわずかに上げた。「ナーセットはこの龍眼の聖域に相応しくありません。彼女は異端者、そのため法の限りをもって罰せられました。ここに彼女はおりません。去って久しいのです」
「去った? 何処へだ? 教えてくれ!」
テイガム師は静かに抑えた息を吐いた。「ナーセットは、もうおりません」
「もういない?」 サルカンの顔から血の気が引き、彼はよろめいた。「だが、そんな事はありえない」
「聞いての通りです」 テイガム師は唇を歪めた。「彼女は最期を遂げました。そして異端者を探し求める者もまた、同じ運命を辿ることになるでしょう」
「異端者などではない。彼女は――彼女は、全てだ」
「これ以上は聞きません」 テイガム師は手を振る一つの仕草をした。それが起こした力はあまりに強く、サルカンは扉へと押し戻された。
彼は壁を掴み、テイガム師の力に精一杯逆らった。「貴方はわかっていない。彼女はここにいる筈なんだ、これは、彼女のための世界だ。彼女のための――龍の世界だ!」
「去るがよい、異端者よ」 テイガム師の手から更なる力の波が放たれると、サルカンの身体は扉を押し破って階段を転がり落ちていった。
アート:David Gaillet |
不器用に両脚を動かしながら降りて、降りて、サルカンの心もまたよろめいていた。彼の背中を押しているのは何の力なのかもわからなかった――テイガム師なのか、彼自身の怖れなのか。
こんな筈ではなかった。ナーセットが死ぬ筈などなかった。この歴史で。このタルキールで。
龍たちがいた。
彼はふらつきながら日の光へ歩み出ると、市場の中を手探りで進んだ。
こんなことはありえなかった。
「違う」 彼は首を激しく振り、髪の毛を引っ張った。「違う、違う、違う」 彼は走りだした。動かなければならなかった。逃げなければならなかった。これを変えなければならなかった。「違う!」
叫び一つとともに、サルカンは龍の姿へと変身して飛び立った。
薬瓶砕きが生きているなら、死して長い龍たちが今も空を舞っているなら、カンであったズルゴが鐘を叩いているなら、ナーセットも必ずここにいる。いなければならない。
タルキールの空を飛びながら、サルカンは世界を見下ろすことができなかった。これまでは、タルキールはあまりに完璧なものに、見事なものに思われた。だが今やそれは傷つき荒廃していた。彼女のいない世界になど、何の意味もなかった。
サルカンは怒りの咆哮を上げた。このような運命が許されようか? 連環は再編されたかに思われた。ウギンを救った彼の吐息はまた――
ウギン。
サルカンの震える心が、精霊龍への思考を掴み取った。
ウギンは知っている筈だ。ウギン、サルカンに時を越えさせた声の主。ウギン、この今に咲き誇る力の源。ウギンならば知っている筈だ。
そうだ。
ウギンならば知っている筈だ、これを正す方法を。
サルカンの翼が新たな決意を得た。精霊龍を目覚めさせる時が来た。
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