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Magic Story -未踏世界の物語-
慈悲
慈悲
Sam Stoddard / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2014年11月19日
ゴブリン。臭いゴブリン。太った、臭いゴブリン。シディシは玉座に倒れ込むように座していた。王冠はなかった――あの忌々しいゴブリンによって奪い取られていた。この数ヶ月、彼女が考えたのはあのゴブリンについて、そして奴とその氏族を手に入れたなら、どうしてやろうかという事ばかりだった。それは強迫観念と化していた。彼女の最も信頼する助言者達は一人また一人、盲目的に復讐を遂行することに対して警告した。そして彼らは一人また一人とケルゥ寺院の「穴」の中央、太母クロコダイルの口にてその運命を終えた。
《嘲る扇動者》 アート:Willian Murai |
「ジーニュ」 シディシは不満そうに息を鳴らした。「腹が空いた。食べ物を持ってまいれ」
あの王冠はシディシ自身がかつて奪い取ったものだった。前カンの、切り取られた真新しい首から。スゥルタイのあらゆるカンと同様に、彼女は策略の能力と冷酷さを証明してきた。そして自身の運命を切り開いてきた。彼の命なき身体を穴へと落とした時、それは彼女の玉座を狙う者には全て同じ運命が降りかかるであろうという警告となった。カンとしての最初の数年、彼女は潜在的な競争相手達を粛清し、他の挑戦者は皆、彼女へとひざまずく以外の全てを恐れた。そしてスゥルタイ政治は平和の黄金時代を迎えた。しかしながら今、ケルゥ寺院の宮廷はいつになく静かだった。通常はその広間に控えている貴族や商人達はシディシの有名な癇癪を恐れているのか、軍を募って彼女の玉座を奪おうとしているのか、それとも単純に死んだのかは定かでなかった。彼女はあまりに多くの者達を穴に送り込んできた。そう、あまりに多くの者達を。
「女王陛下」 痩せ衰えた、禿頭の人間が頭を下げながら言った。彼はその頭部に果物の椀を乗せた腕のないシブシグを引き連れていた。「お気に召して頂けましたら幸いにございます」
ジーニュはスゥルタイ帝国全土において最も裕福な家系の一つの出身であり、商人階級の者であった。寵愛を得るために、そしてニラジ河の徴税義務を独占するために、彼はシディシへとゴブリンの首を三つ献上した。彼はそれらがあの悪辣な行動の犯人だと主張した。だがスゥルタイの女王にとって、死者の唇を動かすことは生者のそれと同様に容易いもので、またシディシにとっては猿にも等しいその人間はラクシャーサの魔法の類については無知だった。三体のゴブリンは彼女の王冠について何も知らなかった――彼らは向こう岸の食べ物をあさるべく、ニラジ河を渡ろうと試みて溺死した逃亡者だった。策略と欺瞞は政治において望まれるものだが、捕えられる危険性は高い。シディシは彼を生かしておいた。死よりも悪い運命があると他の全員に思い知らせるために。
「さて、ジーニュ」 シディシは葡萄を一粒口に入れ、それを丸呑みにして言った。「お前の親類の一人がお前の命を買いにやって来てから少し経ったが。彼らはもはやお前のことを気にかけておらぬのか、それとももはや誰も残っておらぬのか?」
「彼らは......彼らは怖れております、女王陛下」 ジーニュは言った。「陛下の壮麗さに相応しくないものを捧げて貴女様を立腹させてしまうことは、彼らは望んでおりません」
シディシは果物を摘み上げ、食べようと思わないものを床めがけて投げた。「はて、黄金と宝石を持ってきた最後の親戚に何があったのか」
《従順な復活》 アート:Seb McKinnon |
ジーニュは部屋の左側、鎖で柱に繋がれてスゥルタイの旗印を掲げるシブシグへと視線をやった。
「お前に兄弟はもうおらぬのか?」 シディシは尋ねた。「お前に兄弟が少なくとも二人いるという誓いは聞いておるが」
ジーニュは部屋へと連れて来たシブシグを見た。
「おお、そうであった」 シディシが言った。「そやつはマンドリルの檻の近くに置いたような気がしたのだった」
「従兄弟は」 ジーニュは言った。「私の従兄弟は、貴女様の檻を守っておりました一人です」
「ふむ」 シディシは言って、葡萄を一粒摘み上げて口に入れた。「お前の生命と引き換えになるであろう者がもはや残っておらぬのなら、お前は用無しかもしれぬな。ならば我はお前で用を成すとするか。お前を穴に放り込んでな」
「そ、そんな、女王陛下!」 ジーニュは彼女の前の床にひれ伏して言った。「お許し下さい。まだ家族がおります。伝言を送ります。私の代わりになる者が確かにおります」
「そうかの」 シディシは言った。「軍を募るにあたり、穴へと送る者達はとても少なくなっている。お前のような蛆虫に第二の皮膚は相応しくない」
「も......申し訳ございません」 ジーニュは再び言って、カンから後ずさった。「どうか......どうかお許し下さい。ご覧頂きたい新兵がおります」
その者達を連れてくるようにとシディシは合図した。軍を募るにあたり、彼女はスゥルタイの全州に向けて、人口の五パーセントをシディシ軍へと徴兵するように要求した。当初、各州は彼らが望まぬ者達を送りこんだ。犯罪者、貧困者、クロコダイルの穴を養うことすら適わないような者達が、この千年紀で最高となるスゥルタイ軍の前線にそぐわないのは言うまでもなかった。貢物の程度の低さへの不満を示すべく、シディシは第二の要請を送った――今回は各家族の長子を差し出すようにと。この要請は不評であったことから、ラクシャーサの大使達が各州へと送られて、従わない者による叛乱のあらゆる可能性が素早く鎮められた。これらを鑑みてシディシは、送られてきた中で最も強い者を個人的に査定すると通達していた。これらのうち最高の者達が彼女の個人的な護衛となる――あの卑劣なゴブリンの手から被ったような襲撃から彼女を守れるほどに強い、不死の戦士となる。
「ニラジ州を代表する強者達でございます」 ジーニュは言った。
シディシは玉座からその新兵達を見定めた。人生の全盛にある強き戦士達だった。彼らの第二の皮膚は、劣ったシブシグが持って生まれてくるような弱点とは無縁だろう――弱い膝、弱い肩、骨から肉をそぎ取れないような弱い歯ではない。
「待て。この小童は何だ?」 新兵を見定める途中でシディシは言った。彼らの後ろにいたのは十三歳にも満たないような若者だった。「何の冗談だ、ジーニュ? お前自らこの者達を選んで来たのであろう」
「女王陛下、確かでございます」 ジーニュが言った。「皆、強き戦士でございます。貴女様によくお仕えするでありましょう」
シディシは憤ってその尾を鞭のように打ち、シブシグの頭部ごと果物の鉢を宮廷の床へと叩き落とした。「我を弄ぶ気か、猿め。お前の故郷の州の者達だとはわかっておる。このような子供を送りこんだことを許すような憐れみを示す我ではないぞ」
「女王陛下」 ジーニュは床にひざまずいて言った。「確かでございます。貴女様のその目で直接見て頂けましたら、彼は他の男に負けず劣らず強健であることがおわかりになられるかと存じます」
シディシは玉座を離れ、ジーニュへと近づいた。「お前の親戚はまだ残っておるな。それが尽きたならば、お前の友人と仕事の関係者だ。またも我に背いてみるがよい、お前だけでなくお前に関わった者全てを帝国から薙ぎ払ってやろう。お前の名が二度と口の端にのぼらぬように」
ジーニュは首を上げ、一度だけ頷いた。シディシは視界の隅で、若者がごく僅かな瞬間躊躇し、そして飛びかかってくるのを見た。彼は拘束されていなかった――その枷は全く用を成してはいない、ただの見せかけだった。彼の速さはまるで蛇のようで、これらの猿にしては稀だった。この少年はジェスカイ出身なのだろうと思われた。力ずくで連れて来られたか、望んでこの計画へと加わったか。だがその一瞬の躊躇が隙となり、シディシは反応できた。超自然的な速度で彼女の尾がジーニュの脚を掴み、彼を若者へと放り投げた。彼らは宮廷の大理石の床に倒れ込み、ジーニュは悲鳴を上げた。若者は立ち上がろうとしたが、首に女王の尾が巻かれていた。彼は短刀へと手を伸ばしたが、それは手の届かない所にあった。
《絞首》 アート:Wayne Reynolds |
床で、ジーニュが空気を求めて喘いでいた。倒れた際に短刀が彼をかすめており、その皮膚には黒い筋が素早く広がっていった。シディシはその毒を思い出した。シルムガルの息。十年に一度、オブジュング沼の中心に花開く蘭の茎のエキスを数百本分蒸留して作られる。珍しく、高額で、強力な毒だった。犠牲者をゆっくりと苦痛で満たし、治療法は存在しない。一筋のかすり傷でも彼女を殺すのに十分だったであろう。数日から数週間をかけて内部から腐ってゆく。これはシディシ個人を標的とした攻撃だった。
「お前は正しかった、ジーニュ」 シディシはそう言うと、若者の首を砕いてその身体を地面へと投げた。「この者は強かった。我が護衛に加わるに相応しいであろう」
「私は......」 ジーニュは苦痛に悶えながら言った。「お前に倒されはしない。私と家族にしてきた事の仕返しをしてやる」
「お前には少なくない名声を与えた」 彼女は言った。その尾をジーニュの汗ばんだ、痙攣する額に走らせながら。「お前は無能な馬鹿だと考えていた。だが完全にそうではなかった。今も我はお前から思い知らされておる――あまりに手ぬるくなりすぎていたと」 シディシは短刀を取り上げ、それをジーニュの胸に迷いなく突き刺した。「お前が苦悶にのたうち回る姿を数日の間眺めて楽しみたいなどと思う、そのような過ちは二度と起こさぬ」
シディシは玉座へと戻り、今や頭を高く上げて、決意を新たにした。龍たちの偉大さを、彼らが長きに渡って世界を統べた力、その残忍さを。ジーニュが苦しむ様子を見るために生きることを許したのは、姿を変えた慈悲の形だった。慈悲、この世すべての罪の中でもっとも重い罪。それはシディシの生命を失わせるところだった。彼女はそのような感情を、例え最も僅かな形であったとしても、再び見せる事は決してないであろう。
《血の暴君、シディシ》 アート:Karl Kopinski |
あのゴブリンが槍や矢で武装していたなら、致命傷を与えることが可能だっただろう。シディシにとっては幸運なことに、マルドゥは勝利よりも戦そのものを愛している。彼女の軍は未だ完璧には程遠いとシディシはわかっていた。彼女が募らねばならないのは、タシグルの時代以来誰も目にしていないような軍だった。砂草原全体を覆い尽くすほどのシブシグの軍、それらがマルドゥへと休むことなく進軍する。やがて奴らの馬が疲労に倒れてしまうまで。そして彼女は一つまた一つ、あらゆる宿営地を見つけ次第潰すだろう。更に必要とあらば彼女自身でその死者達を蘇らせる。そして彼らはかつての仲間への断固とした進軍へと加わることができるだろう。遅かれ早かれ、オークの王ズルゴ本人が、シディシの最も偉大な宝として宮廷に飾られるだろう。ああ、彼を給仕の盆に変えるというのもいい考えかもしれない。椅子でも良いだろう。
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