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Making Magic -マジック開発秘話-
世界は1つのステージだ
世界は1つのステージだ
Mark Rosewater / Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru
2014年12月1日
世界選手権特集へようこそ。今週は第21回のマジック:ザ・ギャザリング世界選手権がフランスのニースで開催される(カバレージはこちらから)。最初は、これまでの全ての世界選手権を回顧していくのが面白いだろうと思ったのだが(幸いにも、私が参加していないのは1度だけなのだ)、それは2009年にやったことだと気がついた(英語)。もう少し考えてみたところ、1994年の第1回の世界選手権についての記事(英語)や1995年の第2回についての記事も書いていた。世界選手権のトリビアを集めた記事を書いたこともあった。ということで、今日は世界選手権を別の角度から見た話をしようと思う。
ご存じの通り、長年にわたり私は全てのプロツアーに臨席していた。当時、私はフィーチャー・マッチ・エリアの監督をするという仕事もあり、マッチを選んでそのジャッジを務めていたのだ。日曜には、私は決勝ラウンドの映像要素を監督する責任者である映像プロデューサーを務めていた。コメンテーターを選び、ディレクターと相談してどのマッチを取り上げるかを決めていたのだ。今日は、私が初めて映像プロデューサーの任に就いた、1996年の世界選手権の話から始めることにしよう。そして、それから3年間の世界選手権についての話を取り上げていく。そうすることで、諸君もマジック:ザ・ギャザリング世界選手権の別の面を見ることができるだろう。
1996年の世界選手権 - 回想
1996年の世界選手権は、ワシントン州レントンにあるウィザーズ・オブ・ザ・コースト社本社オフィスでおこなわれたという点で特別だった。本社の近くとか同じ通りにあるホテルとかではない。この世界選手権は、文字通り本社ビル内で開催されたのだ。社内の全ての業務を止めて、1週間にわたり、世界選手権に集中したのだ。
これはプロツアーでもある初の世界選手権であり、草創期のことだったので私はコメンタリーも担当していた。そう、初期には私が実況を務め、いろいろなプロ・プレイヤーに解説者・コメンテーターを勤めてもらっていたのだ。最初のプロツアーはごちゃごちゃしていた(詳細を知りたければ、以前のポッドキャスト(英語音声)を聞いてみてくれたまえ)。ロサンゼルスで開催された第2回のプロツアーで、私は初めてプロ・プレイヤーのコメンテーターと働いたのだ。コメンテーターを務めてくれたのはマーク・ジャスティス/Mark Justiceで、クイーンマリー号上で技術クルーが準備できた防音ブースは電話ブースだけだった。いくらか広い電話ブースではあったが、ジャスティスと私は長引いたトップ8の間ずっと12時間そこにいることになった。我々は放送中にピザの出前を取る直前だったのだ(我々は本当に飢えていたのだ)。「ハンマー」ショーン・ルニエ/Shawn "Hammer" Regnierがトム・ゲヴィン/Tom Guevinを倒してアメリカ人対決を制し、次のプロツアー、プロツアー・コロンバスでは「ハンマー」が私と共にコメンタリーを務めた。そのプロツアーでは、スウェーデンの新人オーレ・ラーデ/Olle Radeがアメリカのジーン・フライシュマン/Sean Fleischmanを倒している。
その次のプロツアーが、愛すべきワシントン州レントンで開催された1996年の世界選手権である。このイベントで、私はプロ・プレイヤーのマーク・チャリス/Mark Chaliceにコメンテーターを頼んだ。マーク・チャリスは歴史上そう有名ではないかもしれない。トップ16こそ何度もあるが、トップ8入賞は1回だけである。チャリスはトップ8入り直前のスイス・ラウンドで負けることで有名であった。実際、1996年の世界選手権では、彼は11位だった。チャリスは、香港で開催された第1回デュエリスト・インビテーショナルの16人の1人に選ばれている。
私がチャリスにコメンテーターを頼んだ理由は3つある。1つめが、彼は非常にいいプレイヤーで、面白い話題を色々と持っているだろうと考えたこと。2つめに、彼は私がロサンゼルスに住んでいたころからの友人で、信頼関係があるということ。3つめに、決勝進出者の1人であるマーク・ジャスティスとも友人であり、ジャスティスが世界選手権に向けて準備したことについての洞察もしてくれるだろうということである。
マーク・ジャスティスについて知らない諸君のために言っておくと、彼はプロフェッショナル・マジックの最初のビッグネームというべき人物であった。1995年、彼は南西地方選手権で2位に入賞した(当時は各地方ごとの選手権があり、その上位入賞者がアメリカ国内選手権に招待されていた)。ジャスティスはその後ヘンリー・スターン/Henry Sternを倒し、アメリカ国内王者になったのだ。その後、世界選手権で3位に入賞し、国別代表チームとしては優勝している(世界選手権のチーム戦で優勝したアメリカ代表チームはジャスティス、スターン、マイク・ロング/Mike Long、ピーター・ライハー/Peter Lieherであった。これについても別の記事で語っている)。
その後ジャスティスは第1回プロツアーでトップ8に入賞した。当時、無作為にマジック・プレイヤーを選び、世界最高のマジック・プレイヤーは誰かと尋ねたら、ほとんどのプレイヤーはマーク・ジャスティスの名前を挙げたことだろう。1996年の世界選手権は、マーク・ジャスティスが決勝に進出し、この風評を強める結果になった。彼の対戦相手はオーストラリアのトム・チャンフェン/Tom Chanphengだった。チャンフェンはこれが初めてのプロツアーであり、未知数の存在だった。決勝の時点で、誰もが「世界最高」のジャスティスがマジック世界王者になると思っていたのだ。
当時の配置は、トーナメント本体は1階のロビーでおこなわれており、私とチャリスは2回のバックルームにいた。我々はまた別の部屋の観客に放映するためのカメラを通してゲームプレイを見ていたのだ。私とチャリスは素晴らしかったと言いたいが、このときはそうではなかった。私はプロツアーについて知っていたが、その瞬間に起こっている全てのことを即座に再生する能力には欠けていた。この後を読めば分かるとおり、私が実況を務めていた期間は短かったのだ。
我々の犯した最大の失敗は、第2ゲーム中だった。ジャスティスのほうがずっと知名度が高かったが、チャンフェンのほうが有利なデッキだった。ジャスティスは黒単ネクロデッキ(『アイスエイジ』の《ネクロポーテンス》を軸としたデッキ)で、チャンフェンはネクロデッキを倒すためにデザインされた白ウィニーを使っていたのだ。
デッキリストの問題で使えなかったカードはあったものの、チャンフェンの方がデッキ的には有利だった。ジャスティスは第1ゲームを落とし、第2ゲームの途中に、チャリスはジャッジが処理を間違えたと指摘したのだ。彼は強く確信していて、裏に行ってテープを確認するためにゲームを止めさせた。プロツアーの歴史上、記録テープを巻き戻して見るためにゲームを止めるということはほとんどなく、これが唯一の例かも知れないほどである。さて、約30分かけてジャッジがテープを確認したところ、チャリスの申し立ては――間違っていた、ということがわかった。私は苛立ちの視線を浴びせられ、そして人々は決勝戦を再開するために戻っていった。
1996年世界選手権の決勝について詳しくない諸君のために伝えるなら、鍵となったプレイはジャスティスが唱えた2枚の《Demonic Consultation》が巧く行かなかったことだ。ジャスティスはそこから立て直せず、チャンフェンに敗北を喫することになった。そして世界にたった1枚しか存在しないカードが封入されたトロフィーは、オーストラリア人のものになったのだ(実際に1枚しか存在しないのだ。1シートだけ印刷したあと、そのカード1枚を除いて全て廃棄するところを動画で公開している)。
一方、チーム戦イベントでは、期待の新鋭チェコ共和国代表チームが番狂わせに手をかけていたが、結局はアメリカ代表チームが2年連続で優勝を収めた。
ビデオ・カバレージが最高のものとは言えなかった(社内でしか公開できなかった。ビデオを公開する場所もなかったし、ストリーミングが実用化されるまでにはまだ20年ほどの時間が必要だった)が、このイベントは成功だった。
1997年の世界選手権 - ショーの始まり
世界選手権は3年連続でシアトルで開催されたが、新しく立ち上げたゲーム・ストアのチェーン店に注目を集めるため、1997年の世界選手権はウィザーズ・オブ・ザ・コースト社がシアトルの大学地域(ここで言う「大学」はワシントン大学であり、地元では「U Dub」と呼ばれている)に設立した旗艦店に舞台を移していた。
一方、プロツアーの地位を高めようと、ウィザーズはESPN2とマジックのショーを放送してもらう契約を結んだ。それぞれは30分番組で、別々のプロツアーに焦点を当てたものだった。1つめは1997年の世界選手権。このため、私の映像プロデューサーとしての仕事は一段と忙しいものになった。まず最初、まだイベントそのものが始まる前に、事前インタビューをおこなうトップ・プロの名簿を作らなければならなかった。目的は、トップ8に残ったプレイヤーの何人かをイベントの最初からカメラで追うということだった。もちろん、誰がトップ8に入るかはわからないので、それまでの経験からかなりの予想を立てる必要があったのだ。
インタビューする相手として選んだ中の1人が、チェコ共和国からの若きプレイヤー、ヤコブ・スレマー/Jakub Slemrだ。彼は前回の世界選手権のチーム戦で活躍していたが、個人として上位入賞したことはまだなかった。なぜ彼をインタビューの相手に選んだのかと尋ねられたが、私が答えられたのは、彼が結果を残す気がしたからだ、ということだけだった。そして実際に結果を残した。ヤコブは1997年の世界王者になり、我々は事前に彼のインタビューを取っておくことができたのだった。
プロツアーのトリビアが好きな諸君のために一言。1997年の世界選手権のホストは、後にサバイバー/Survivorで司会を務めるジェフ・プロブスト/Jeff Probstその人だった。決勝ラウンドはウィザーズ・オブ・ザ・コースト社のトーナメント・センターの地下でおこなわれたが、そこは決して広いスペースではなかった。テーブルを俯瞰で撮影できるカメラ装置があったが、それを動かせる空間はなかった。そして空調もよくなかったため、照明の影響もあって地下室はかなり暑くなっていた。
前の世界選手権からの1年間で、私がコメンテーターに向いていないということは明らかになっていた。私は何人もの司会を試し、そして1997年の世界選手権でのコメンテーター2人は臨時の組み合わせとなった。実況はマジックのデザイナーが務めたが、私ではなかった。このイベントでは、マイク・エリオット/Mike Elliott(2番目に多くマジックのリード・デザイナーを務めている男だ)が務めた。解説は、ジェフ・ドネ/Jeff Donaisという男が務めた。ドネは後にウィザーズに入社し、何年もの間プロツアーを運営まですることになる。当時は、彼はプレイヤー(兼主催者)で、1997年の世界選手権にも参加していた。実際、彼はトップ8に入りそうだったので、そうなったら彼を使うわけにはいかなくなるところだった。ジェフは初日全勝、2日目にも好成績を残した。トップ8に残るには、3日目に2勝4敗1分け以上の成績を残せばいいだけだった。しかし、ドネはそこで失速し、1勝5敗1分けの成績で3日目を終えたのだ。
もう1つ面白い話として、アメリカ代表チームに身繕いが必要だと決定された、という話がある。多くの国別代表チームはそろいのユニフォームを着ていて、カメラ映えしていた。アメリカ代表チームはユニフォームを揃えておらず、印象的ではなかった。この時点で世界選手権の国別代表戦は3度目で、過去2回はどちらもアメリカ代表チームが優勝していたということを思い出してもらいたい。我々は、星条旗のシャツを求めてシアトル中を走り回らせ、見付けることができた。アメリカ代表チームは悲惨な成績で、決勝に残る可能性すらなかった。最終的には、カナダ代表チームがスウェーデン代表チームを破って優勝し、タイトルを北米に残すことができたのだった。カナダ代表チームには、ジェフ・ドネの兄弟で後に開発部入りするマイク・ドネが所属していた。
決勝で、ヤコブ・スレマーがドイツから来たヤヌス・クーン/Janusch Kuhnを破った。3位はカナダのポール・マッケイブ/Paul McCabeで、これによって彼は2代目の年間最優秀プレイヤーになったのだ。カバレージは1996年と比べて大きく進歩している。これはESPN2で放送するために投入された追加のリソースのおかげである。ジェフ・ドネはコメンテーターとしての能力を証明したが、後に彼がウィザーズに入社し、プロツアーのトーナメント・マネージャーとして働き始めたことでコメンテーターとして使うことはできなくなってしまった。
1998年の世界選手権 - 2つの式典
1998年の世界選手権もシアトルで開催されたが、ウィザーズ・オブ・ザ・コースト・トーナメント・センターではなく、ワシントン大学から数ブロック離れたところが舞台となった。この年はアメリカ一強で、この年の全てのプロツアーでアメリカ人が優勝していた。話題の中心は、アメリカが最後のイベントとなる1998年世界選手権でも優勝してプロツアー・シーズンを総ナメにできるかどうかだった。
1997年と同じく、1998年の世界選手権もESPN2で放送されることになっていた。プロツアーの映像プロデューサーなので、私はやはりとても忙しくなった。私の仕事の1つが、トップ8のコメンテーターの選定であった。試行錯誤の末、最高の組み合わせだと思える組み合わせを見付けることができた。実況にブライアン・ワイズマン/Brian Weissman、解説にクリス・ピキュラ/Chris Pikuraである。ブライアン・ワイズマンは、名声を博して公表された史上最初のマジックのデッキ、「ザ・デック/The Deck」の作者として歴史に名を刻んでいる(英語記事)。私がウィザーズに入る前、ロサンゼルスに住んでいたころ、イベントに参加するためにサンフランシスコまで行ったとき、トレード用に《Moat》を持っていた。《Moat》はザ・デックに入っていて、そしてザ・デックはワイズマンの地元から次第に名声を博し始めていたところだったのだ。ワイズマンと私は友人になり、私は彼のマジックに関する考え方に魅了されていた。
私がクリスと知り合ったのは、プロツアーを通してである。彼は素晴らしいプレイヤーであるだけでなく、どんな出来事も大活劇にできてしまう素晴らしいストーリーテラーだったのだ。クリスはとても面白くて魅力的だった。コメンテーターを探すとなって、ワイズマンとピキュラの2人が思い浮かんだ。私はそれぞれを試してみたが、どちらもこの仕事に卓越した能力を見せていた。彼らを組み合わせたところ、まさに最高だった。ESPN2時代を通して、彼らが主力のコメンテーターとなったのだ。
この話にはもう1つ問題があった。1998年の世界選手権は、8月12日水曜日から8月16日日曜日まで、ワシントン州シアトルで開催された。そして8月15日土曜日に、私のただ一人の妹であるアリッサ/Alysseがオハイオ州クリーブランドで結婚式を挙げたのだ。私の家族はとても親密で、妹の結婚式を欠席するという選択はあり得なかった。しかし、ESPN2の番組で使うための決勝のカバレージは必要である。そこで、私はこうしてこの両方をこなしたのだ。
水曜日と木曜日には世界選手権に臨席。金曜の朝に、私と妻のローラ/Loraは飛行機に飛び乗り、金曜の夜のディナーに合わせてクリーブランドに到着。土曜日、結婚式の各種行事をこなし、その晩の結婚式に参列し(案内係を務め)、披露宴にも参加した。そして日曜の朝一の飛行機に乗って街を離れ、時差を活用して朝10時にはシアトルに戻ってきたのだ。私がコメンテーター・ブースに到着したのは、準々決勝の途中だった。
これが成功するようにするため、私はあらゆる事前の準備をしておいた。ワイズマンとピキュラにはコメンテーターとして準備していてもらっていたが、彼らのどちらかでもトップ8に入った時のために代役も準備してあった。金曜日にクリーブランドに着いた時点で、ピキュラはまさにトップ8に向かっているということがわかった。代役の名前はランディ・ビューラー/Randy Buehlerという。ビューラーと私が友人になったのもプロツアーを通してだった。後に私は彼を開発部に推薦することになる。ビューラーは成功し、やがて私の上司になった。ワイズマンと同じく、ビューラーのマジックに関する語りが気に入っていて、きっといいコメンテーターになれると思ったのだ。
私がブースに到着してまもなく、ピキュラが準々決勝で敗れるところを目にすることになった。その時、私は奇妙な電話をかけたのだ。ESPN2の番組は30分枠しかない。マッチが相当早く終わらない限り(1999年の世界選手権ではそうだった。1分で終わったのだ)、時間の都合で決勝戦だけが放送されることになる。つまり、ピキュラをコメンテーターとして使う余地があるということなのだ。ビューラーはいい仕事をしてくれていたが(そして後にこの仕事をする機会はずっとずっと多くなる)、ワイズマンとピキュラのコンビが最適だと感じていたので、ピキュラに準決勝および決勝のコメンタリーをする準備はできているかと尋ねたのだ。こうして、史上初の、そしておそらくは唯一の、自分が入賞したトップ8のプロツアー・カバレージをした人物となったのである。ピキュラは見事に役目を果たし、ESPN2カバレージは素晴らしいものになったのだった。
なお、ブライアン・セルドン/Brian Seldonが決勝でベン・ルービン/Ben Rubinを倒し、1998年のマジック世界王者に輝いた。セルドンとルービンはどちらもアメリカ人で、アメリカによるプロツアー・シーズンの独占が成立したことになる。国別代表戦でもアメリカ代表は決勝に進み、フランス代表を下している。
1999年の世界選手権 - 速いプレイ
1999年のマジック世界選手権は日本の横浜で開催された。横浜を知らない諸君のために説明すると、東京の近くにある都市であり、複数回世界選手権の舞台となった数少ない都市の1つである(もう1回は2005年に開催されている)。1999年の世界選手権はいろいろな意味で有名だが、最も重要なものを挙げるならカイ・ブッディ/Kai Buddeが優勝した初めてのプロツアーである、ということがある。
プロツアーの歴史を知らない諸君のために説明すると、カイ・ブッディはドイツのプロ・プレイヤーで、プロツアーに7回優勝するという最多優勝数の記録を持っている。そして、世界選手権、世界選手権チーム戦、その他のプロツアー、マジック・インビテーショナルの全てに優勝している、ただ2人のうちの1人である(もう1人これを達成しているのは、ジョン・フィンケル/Jon Finkelだ)。カイ・ブッディはほぼ満場一致で選出されてマジック・プロツアー殿堂入りを果たしている。しかし、1999年の世界選手権の時点では、彼はまだ有名とは言えなかった。無名というわけではない。この年、彼はヨーロッパのグランプリで3連勝を飾り、もう1回も準優勝を果たしている。しかしプロツアーというより大きなステージにおいては、彼はまだ新人だったのだ。
この年も世界選手権はESPN2で放送されることになっていたので、私はコメンテーターを選び、日本に送った。ワイズマンもピキュラも世界選手権に参戦していなかったため、前年と違って直前で入れ替えることになる心配はなかったが、仕事があったピキュラは夜間便で向かうことになり、疲れ果てていた。
最終日はシーズンの物語において重要な瞬間になった。アメリカは相変わらず好調だったが、新しく台頭してきたもう1つの国があった。ドイツである。個人戦でもチーム戦でも、アメリカ対ドイツの構図になっていた。
チーム戦の決勝が先におこなわれた。アメリカ代表チームはキャプテンにアメリカ国内王者カイル・ローズ/Kyle Rose、そしてジョン・フンカ/John Hunka、ズヴィ・モーショヴィッツ/Zvi Mowshowitz、チャールズ・コーンブリス/Charles Kornblith。ドイツ代表チームはキャプテンにドイツ国内王者マルコ・ブルーメ/Marco Blume、そしてロサリオ・メイ/Rosario Maij、ダヴィド・ブルッカー/David Brucker、パトリック・メロ/Patrick Mello。両チームとも何人ものトップ・プロ・プレイヤーが参加していた。アメリカ代表の中で一番著名なのが後に殿堂顕彰者となるズヴィ・モーショヴィッツなら、ドイツ代表の中で一番有名なのはパトリック・メロだろう。後にブルーメはカイ・ブッディやダーク・バベロウスキー/Dirk Baberowskiと組んでチーム「Phoenix Foundation」を作り、チーム戦プロツアーで2回優勝して、数少ない複数プロツアー優勝経験者になることになる。
紙の上ではドイツのほうが有利に見えたが、アメリカが世界選手権チーム戦で負けたことはチーム戦が始まって以来1度しかないのだ(1997年)。最終的には、アメリカが勝利した。マルコ・ブルーメにとって残念なことに、この決勝戦全体を通して一番印象に残ったプレイは、戦場にアーティファクトがない状態でマルコ・ブルーメが《欲深きドラゴン》を唱え、《欲深きドラゴン》自身を生け贄に捧げなければならなくなったことだった(彼を擁護しておくと、当時、《欲深きドラゴン》を唱えられるデッキでは必ずアーティファクトが戦場に出ていたのだ――いや、ほぼ必ず)。この不幸なプレイを別にすると、ドイツ代表のプレイも悪くはなかったが、アメリカ代表には及ばなかった。
この裏側で、我々はESPN2の番組の1つをチーム戦に、1つを個人戦決勝に割り当てることに決めていた。個人戦の決勝がアメリカのマーク・ルピーン/Mark LePineとドイツのカイ・ブッディ/Kai Buddeになって、どちらのプレイヤーも知名度が足りないという恐れがあったのだ。ルピーンは以前のプロツアーで結果を残しているが、ブッディのほうはこれがプロツアーで初のトップ8だった。グランプリ・バルセロナ(インビテーショナルがおこなわれていた)でブッディのプレイを少し見ていて、彼のグランプリでの成績を知っていたので、私はカイが世界王者になってもおかしくないと太鼓判を押していた。
両プレイヤーとも赤単デッキだった。ルピーンのデッキは比較的土地破壊寄りで、カイのデッキは赤単アーティファクト・デッキだった(マルコ・ブルーメがチーム戦で使っていたものと同じである)。両デッキとも超高速デッキだった。第1ゲームは4分以内で決着がつき、第2ゲームは3分以内で決着がついた。どちらもブッディの勝利だった。第3ゲームの始まる前にステージに向かったのを覚えている。「自分のペースでやりたまえ。急ぐ必要はない」と声をかけたのだ。
私がそう言ったのは、30分番組を埋める必要があるのに2ゲームで合わせて7分しかかかっていなかったからである。最終ゲームは、5分でブッディが勝利を収めた。つまり、最終マッチ全体で12分しかかかっていないということである。ゲーム全体を流し、ゲーム前のおしゃべりを含めても、番組1本分の尺を埋めるには足りなかった。結局、時間を埋めるために、準決勝の映像を流さなければならなかったのだ。
アメリカとドイツは2つの大イベントの栄冠を分け合うことになったが、ドイツは注目すべき国だということが明らかになった。これから先の数年、ドイツと、中でもブッディは、それまでないほどに圧倒的な力を見せることになる。
世界を超えて
そろそろ時間だ。これ以降の世界選手権の話は、また次の世界選手権特集のときにすることにしよう。諸君が今回の物語を楽しんでくれたなら幸いである。また、諸君からの反響を楽しみにしている。メール、各ソーシャルメディア(Twitter、Tumblr、Google+、Instagram)で(英語で)聞かせてくれたまえ。
それではまた次回、私がメールを見る日にお会いしよう。
その日まで、あなたのマジックのゲームが思い出に残るものでありますように。
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